また、アニミズムの復権、か……
2002年8月8日


 またか、というだけの印象でよいのかどうか、まだ迷っています。
 西日本新聞に、最近大きく載った、地元で活躍する有名作家の意見。戦争の絶えない一神教はだめであり、すべてに命を見いだす東洋の宗教思想がこれから栄えるべきである、と。
 すべてに仏性があり、命があるとする、東洋のアニミズム的な思想が優れている、というのです。
 その気持ちは、分からないでもありません。感情としては。
 ですが、この意見に反論すると、おまえはテロを支援するのか、という短気な声も飛んでくることを、当然予想しています。問題は、そういう単純なものではありません。テロや民族紛争の絶えない一神教の争いが(日本が関わらないままに)行われているということのゆえに、アニミズムが優秀であると言えるのかどうか、そこを視点に入れているかどうか、が問題です。

 まるで、東洋には戦争も争いもなく、楽園であるとでも考えているのでしょうか。中東や欧州で諍いが絶えない事実のゆえに、アニミズム国家は平和そのものであると能天気に結論するのでしょうか。
 しかも、具合の悪いことに、自分が圧迫する側、加害者の側にいるかもしれない、という視点がまったく存在しないままに。そして、加害者かもしれない己を考えるとなると、それは一言「自虐的だ」と一蹴するのです。

 中東で、西欧で、一神教を信じる人々が、絶え間ない戦争に明け暮れているのは事実です。しかし彼らは、無惨な争いをしている中で、自分が加害的好意をしている点の自覚がないはずがありません。
 他方、アニミズム思想には、その加害意識を生まないようなシステムがあります。初めから、視野が、見えているものが、違うのです。どちらが良いとか悪いとかいうわけではありません。
 一神教の側は、可能な限り、アニミズム思想と対話をするように、近づいてきました。対話という事柄そのものが、一神教的な基礎をもつものです。アニミズム思想には、対話という概念すらないでしょう。そのうえで、一神教は危険だとかもう役に立たないとか、平和の敵だとか、一方的に非難するのです。

 つまるところ、牛や羊をたえず犠牲として献げるのは野蛮行為であり、草をはむ生活は仙人のように尊いと決めつけている図式が、その一つの原型であるような気がします。
 人身御供を出すことも、一族郎党を皆殺しにしたことも、そして、現代でも平気で続いているように、和を乱す者をいびり出す行為も、すべて忘れています。自分だけは、平和の味方であると自負するかのように、アニミズム論者は、一神教をこけにするのです。

 私には、このように言うだけの理由があります。
 何を隠そう、私自身、そのような思いで、キリスト教は限界であり、仏教に活路が見いだせる、と思って京都に向かったのです……。二十歳の頃でした。けれども私は、そのようにほざいている自分自身が、どうしようもない罪の中にあり、それに染まっていることに、やがて気づかされました。すると、それまで見えていなかった、自分自身がいかに他人を圧迫し、傷つけていたかということが、急に見えるようになりました。いわゆる「気づき」の問題かもしれません。
 私は思い知らされました。自分自身が加害者である、と。

 妖怪や、シャーマニズムが、子どもたちの好きなアニメやマンガの中でも幅を利かせています。ウルトラマンもそういう方向に哲学を語り始めました。そういうものが、もてはやされています。私たちが戦うべき敵がいるということにさえ、気づこうともしないで。
 繰り返しますが、テロや戦争を肯定しているのではありません。むしろその反対です。陰湿なテロや戦争を含み持つ思想を、正義として推進することの中に、危険性を感じる、健全な魂をもつことが大切だ、ということが言いたかったのです。

 8月に限らず、平和とは何か、戦争はなぜ始まり、止められなかったのか、考えていきたい。また、次の子どもたちに伝えていく義務が、戦争を知らない子どもたちにも、あるはずです。


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