本

『俗語入門』

ホンとの本

『俗語入門』
米川明彦
朝倉書店
\2500+
2017.4.

 俗語という分野の第一人者と言ってよいだろう。これまでも数々の著書を世に問い、類い希なその提供する情報で人々を驚かせてきた。
 流行語大賞などと呼んで私たちは言葉を弄んでいるふしがあるが、それの行方を追い続け、整理し分析するという学的な営みは、いったいこれまでなされていたのだろうか。俗語という定義自体難しく、必ずしも意見の一致したところではないようだが、おそらく「日本語教室」で出てこないタイプの言葉であろう。外国人に日本語を教えるとき、わざわざ持ち出すことのない語である。だが、日常的にはそれが普通に使われている点は、英語学習者にとっても同じ印象をもつであろうと思われる。日常は、何も改まった場所で綴られ語られる語や文と同じものによって成り立っているわけではないのである。
 しかし、その俗語はそもそも何のために使うのか。どのように造られるのか。いつどこで生まれたのか。こんなことを問われても、誰も何も言えないだろう。それをこの著者は、この「入門」においてやってくれている。
 俗語が多いのは、たとえば流行語である。若者ことばという捉え方もできる。また、業界用語があることも事実である。また、時代により変化していくこともあり、おなじ「やばい」がいまほぼ反対の意味で使われているのは周知のところである。最後には消えていくというありかたについても分析が進められ、書は閉じられる。
 この著者は、手話についての研究も深い。
 巻末に、大宅壮一が中学生のとき、教育勅語の誤りを指摘したら叱られたという逸話が載せられている。権威に立つということは、誤りを誤りとしないようにする力さえ持っているのかもしれない。ほかにももしかすると聖書の邦訳についてもそうしたことがあるだろう。
 そうでなくても、言葉の乱れというものがしばしば言われるが、そこには面白い例として、「着替える」は、半世紀前は「きかえる」が標準だったが今は9割以上が「きがえる」だと思っていること、「十匹」は「じっぴき」、「三階」は「さんがい」であるというかつての標準がいまは少数派になっていることなどが紹介されている。「全然」が普通明治末までは肯定形の語と共起していたということは最近有名になっている。
 そして最後に著者は、「伝え合う」こともことばの大切な役割ではあるだろうが、それだけではないという思いを吐露する。「通じ合う」ことの中にコミュニケーションがあるし、それは互いに理解しようという心が働くのでなければありえないものだとしている。ことばは「通じ合うために使う」のである、と。
 本文は、これに続いて、新約聖書の言葉で結ばれた。
 私はここで、やっと気づいた。著者がクリスチャンであったことに。手話辞典も監修するなど研究分野の一つであるに加え、キリスト教に関する本も出している。PHP新書の『手話ということば』は私も読んで、ここに紹介したではないか。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system