本

『字が汚い!』

ホンとの本

『字が汚い!』
新保信長
文藝春秋
\1300+
2017.4.

 インパクトのあるタイトルであるし、その文字が活字とはいえ分解されて歪んでいるスタイルをとっている。手書きだと、さらに読みづらいものとなるものだろう。その背後に、ぼやきともとれるような言葉が、若干子どもじみた字体で書きなぐられている。「なぜ私の字はこんなに汚いのか?」「子供の頃から字が汚いと言われていた」「練習すれば字はうまくなるのか?」などなど。本書のテーマと内容は、これに尽きる。そして、このライターであり編集者でもある著者が、自ら発起して字を改めていく冒険の旅に出て行くのである。
 しかし、そこは編集者。他の作家などの文字を、何十年と見続けている。自分の字の拙さを痛感すると同時に、他の一流の作家たちの文字の個性溢れる姿をもいろいろ観察し、考察に入れていく。そこがまた面白い。確かに、活字となってしまえば、誰もがスマートにその「言葉」を語っているかのように思えるが、実のところ、各作家の手書きの文字は、そのひととなりを物語っており、「言葉」にはもたらされない多大な情報をそこに含んでいると言える。ここには出さないが、ある人の「読めるものなら読んでみやがれ」で通した文字は、自分が売れっこであることと、その後の様々な場面での態度や考え方からして、まさにその通りでしかない、という有様を示していた。これは、活字でしか読まない私たちには知られない事実である。なるほど、そんな人なのだ、と原稿を見れば一目瞭然なのだ。
 もちろん、いまは電子媒体が多くなり、誰もがただ「言葉」だけを伝え合うようになっている。作家の方々もそうであるが、中には肉筆にこだわる人も少なくない。本書はそのような中から選ばれているので、なにも作家を批評するというのでなく、元来純粋に、著者が、字が汚いとはどういうことで、どうすればよいのか、などに悩み、あらゆる実践を通して、克服していこうとする愉快なレポートとなっている。
 愉快な、とは語弊があるかもしれない。私は、いくらか心得があったので、きれいに書こうと思えばそれなりに書ける立場であるため、著者の苦しみというものを共感できるとは言えないかもしれない。が、走り書きの私の文字は読みづらく、全く分からないわけでもないので、言わんとするところに理解が向かわないわけではない。何も高いところから見るつもりはないが、素朴に、楽しませてもらった、と言ってはいけないだろうか。
 つまり、一編集者が、自ら体験的に、字を美しく書きたいという目的のために、アドベンチャーを試みた、そのレポートがここにあるというわけで、ノンフィクションの愉しさがある、と言うと、失礼だろうか。
 だから、そもそも字が汚いとかきれいだとかいうのはどのように規定されるのか、といった議論をするつもりはそこにはない。自分の書いた字にコンプレックス、あるいは幻滅を覚えた人が、どうやって行動を起こしていくか、というストーリーとして私たちも読んでいけばよいのである。
 しかし、後に、ふと立ち止まり、思う。そもそも文字が人となりを物語るのであろうか。欧米人にはその思想はないように見える。著名人の直筆の原稿も時に紹介され、味わわせてもらえる。ここでは明かさないが、ある人のとても読めない文字は、編集側がすべて横に楷書で書き添えるという形で出版されている様子が分かり、その人物がいま社会で対応しているその人物像にマッチしているように思えて仕方がなかった。この人物、筆跡が世の中に公表されていたら、社会はこの人をここまでの地位には置かなかったのではないだろうか。
 つまり、その人の語り言葉はメディアで明らかにされるが、書く文字は、すべて活字に直された「言葉」としてしか世に示されない。字はひとを表す、という側面のある日本社会に置いて、これは不公平というか、判断を誤る元になるのではないだろうか。口でうまいことを言う人は、書く文字が人格を反映されているような場合でも、それは表に出ないのである。
 もちろん、字がうまくないから人格がよろしくない、などと言っているのではない。読めるものなら読んでみろ、という文字しか書かない人は、人の気持を推し量ったり、人に仕えたりという気持ちでスタンバイしているのではないということだ。これは、小中学生の文字を見ていても、概ねそのように思う私の印象と同じである。
 このように、筆跡判定とはいかないまでも、文字を書くということにおいて、様々なことを読者の心に呼び覚ますような、好企画の本ではなかったかと私は喜んでいる。さすが、編集者だと言わざるをえない。
 蛇足だが、阪神タイガースのファンという洒落も、随所に出てきている。それがどういう楽しみであるのかは、読者のお楽しみとしておきたい。




Takapan
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