本

『古代教会における財産と富』

ホンとの本

『古代教会における財産と富』
M.ヘンゲル
渡邉俊之訳
教文館
\1800+
1989.4.

 読書というものは雪だるま式に肥えていくことがある。ある本が面白かった。その本に引用されていた、あるいは参考文献にあった、そうした本を読んでみたいと思うようになる。するとその本がまた良くて、そこに勧められていた本にまた手を出していく、という具合である。
 この本も、そうした展開の中で出会った一冊である。聖書についての解釈や読み方の本は多いが、そもそも聖書に描かれている社会やその当時の人々の、ふだんの暮らしというものについて、私たちがどれほど知識を持っているかというと、甚だ怪しいのである。
 いったい学校に子どもたちが行っていないという当たり前のことを背景にしないと、どうしてこんなふうに教育ができていないのだろう、などという場違いな疑問に包まれてしまうかもしれない。ちょっとした生活の中の習慣や状況を知らないでは、たとえ話すらたとえにならないという事態になる。冷たい水一杯を訪問者に飲ませるということが、どれほど手の込んだもてなしであるかということを知らなければ、イエスのことばの理解もまるで違ってくるものであろう。
 経済はどうだったのか。そもそも経済なるエコノミーという考え方は、切り盛りのようなものでもあり、古代ローマでは奴隷身分の者に任せるという側面もあったと聞く。エジプトのヨセフも、有能であったためにそのような立場に置かれた。自由市民は手ずから職をもつ必要はなく、その中でギリシアでは哲学的話し合いがもたれた、とも言われている。聖書の物語の背景としてだけではなく、当時の「社会常識」について無知であるとき、あまりにも勝手な思いこみで、古代の人々を判断してしまうことは、怖いことである。社会や人々の真実を見る眼差しを遮ってしまうであろうからである。
 古代教会において、財はどのように見られていたのか。もちろん、聖書の中のそれについての記事が取り上げられる。そういえばそういうことが言われていたな、と私たちは思い当たるふしもある。聖書でない他の文献や考古学からも、経済や生活についての知識が持ち出され、人間がどういう生活を送る中で物事を考えていたか、という点に気づく。
 それはまた、価値観の創造という問題でもある。ユダヤ教ではどう捉えられていたのか。私たちは一定の見解や印象を持っていたかもしれないが、それが適切であるのかどうか、本書は明らかにしていく。比較的淡々と描く中で、私たちは多くのものを学ぶことができるようになっている。
 やがて、イエスがどう考えているか、も論じられるが、これはむしろ読者が一人ひとり、聖書を読む中で考えていけばよいかもしれない。パウロはどうか。初期教団はどうか。思えば、貧しい者は幸いというとき、精神的貧しさという喩えでもあるかもしれないが、基本的に貧しい者たちがいて、イエスに従ったし、イエスに救いを求めていた。イエスはそうした人々にむしろ味方をした。かといって、貧しいままでよいのかというと、婚礼には礼服を着ることを求めるなど、貧しいなりに神の前に出て行く姿勢というものは要求していたようにも見える。金持ちが天の国に入ることがいかに難しいかを、ユーモラスにも語った。いったい、こうした教えの背景には、どんな経済情況があったのか。富へのどういう価値観が世に普通にあり、イエスはその何を破ったのか。
 まずは、学ぶこと、知ることから始まるべきである。考察は、各自がまた聖書を通じて形作ればよい。案外、こうした財産についての淡々とした解説というものは、見当たらないものである。薄い本書はその助けになるものとして十分だった。入手しづらい本でもあるだろうが、有意義な時を与えられたことだけは、申し伝えておく。




Takapan
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