本

『あなたはヨブと出会ったか』

ホンとの本

『あなたはヨブと出会ったか』
今井敬隆
新教出版社
\1600+
2016.5.

 ヨブ記の講解説教というのは確かに勇気の要ることだ。それに挑み、長きにわたりヨブ記を少しずつ読んでいくことに付き合う教会員も忍耐の人々であったことだろう。
 本書に記されているように、ヨブ記はあまり礼拝説教で語られない。語られるとすれば、せいぜい初めの部分か、終わりの部分だ。クリスチャンでも、ヨブ記を丁寧に読む人は珍しい。また、その論旨を追いかけてつかむというのは、容易なことではない。テキストの読み方自体にも、諸説あるし、挿入云々を語り始めると、ほんとうに何をどう捉えてよいのか分からないということがままあるからである。
 それに挑もう、という著者の意気込みは買いたい。それをこのように著してくれたことに感謝したい。
 基本的に、短い説教が集められたものであると言えるが、文章は整っており、また簡潔である。分量が多いが、ヨブ記からの引用が多いので、それなりに読み進める。最初にヨブ記の該当箇所が掲げられるが、説教の中で逐一引用されるので、ざっと見ておけばあとはお手並み拝見ということもできる。もちろん、読者が丁寧にまずヨブ記のその箇所を味わっておけば、受け取り方も違ってくるであろうし、それが理想的であるようにも思えるが、なかなかそうはいかないかもしれない。
 ただ、ひとつひとつを区切って読むよりは、いくらかでも続けて味わうことがよいような気がした。そもそもヨブ記を読むときにもそうだが、一連の流れをぷつぷつ別の日に区切って読むと、把握しづらくなる。ただでさえ、矛盾のように見えることがたくさんある書である。そこには挿入があるのではないかとか、わざと反対のことを言っているのではないかとか、様々な憶測が飛ぶ。それほどに、すんなりとは理解しづらい書なのである。
 あらすじだけをサッと掴むのは、さほど難しくはない。だが、それでいいのか。何かそれは読み間違っているのではないか、細かな点を検討すると、辻褄が合わなくなってくる。また、流れがおかしいと思うようになる。最後結末はこれでよかったのか、いったい神はなぜヨブを正しいと認めてくださったのか。筆者はとくに、この最後の点を頼りにする。ヨブは他の友人たちよりも上に扱われている。神が、無駄にヨブを試したようなところがあるからだ、というような読み方はあまり適さない。神の義はどうあるものか、錯綜した中にも読者は捉えるように期待されている。神はヨブそのものの身の潔白の証明をすべて退けているわけではない。もとよりヨブも人であり、神ではないから、神のような口を利くことは許されまい。だが、神はヨブを結局認めているように見える。また地上で幸せにしたというのはおまけのように見えないこともないが、それは神の祝福の証しでもあるのだろう。
 筆者は、様々に問いかけながら読み進めていく。ふつうヨブ記で取り上げられる、冒頭と結末だけという図式から離れ、むしろそこは実に軽くしか扱わない連続講解説教である。格闘しているのが分かる。そこに意味があるとも言える。ただ、筆者自身、分からないと告白しつつ講解説教している姿はどこか痛々しい。誠実ではあるが、確かにすっきりしない。それはそれで人間らしいけれども、読者は肩すかしを食らったような気がしないでもない。それでもよいのだ。ヨブ記はそのように読者に挑戦をしているに違いない。筆者も、分からないを連発しながら、とりあえず読み進めていく。
 筆者は時折、自分の信仰のなさを告白する。若干、救いの確信において曖昧なところがあるような気もするが、それだけ誠実に語っているとも言える。読者も、格闘したらよいと思う。決して、これはこうだと決めつけてしまうのでなく、どうなんだろうか、と問いかけながら共に闘ってみたい気がする。だから、というわけでもないが、やはりいくらかまとまって読み進めたほうがよいと思うのである。
 解決を求めるというよりも、共に格闘したいガイドであり、旅の友でもあるような本となることだろう。




Takapan
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