本

『夜と霧 新版』

ホンとの本

『夜と霧 新版』
ヴィクトール・E・フランクル/池田香代子訳/みすず書房/\1575/2002.11

 有名な本である。多くの人が読んだはずの本である。それほどに知られた本である。しかし、実際に読んだ人は、それほど多くはないのかもしれない。私も恥ずかしいことだが全部きちんと読んだのはこれが初めてである。機会がないというよりは、思い切って手を伸ばさないと、読むチャンスは永遠に訪れないのかもしれない。私たちは、今読めるときに、読みたいと思う本を読むべきだとつくづく思う。
 半世紀を超える歴史をもつ本である。それをこのたび、新しい訳で出版したのだという。
 原本そのものの改訂があったという理由もある。また、より読みやすい今の言葉の訳が求められたという事情もあるようだ。解説によると、「ユダヤ」という言葉などについて、時代を経て変わってきた点が原本には若干あるのだという。
 それにしても、重い本である。ユダヤ人であるというだけで逮捕され、収容されたその場所で、人間は生と死の極限状況の中で生きて、そして死んでいたのだ。これも新訳で減ったという違いがあるそうだが、「モラル」も何もありしゃしない。どんな知識や理論も、現実の暴力の前では何の力ももたないのだ。
 映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の印象が私には強い。あれはまた映画という手法で、ロマンチックなところが強かったに違いない。もっと汚く、残酷で、そして人間らしさなど微塵もないような限界状況が、現実のそこにはあったのだろうと推察する。著者は、まさにその現場を生き抜いてきたのだ。愛する家族を失う結果になろうとも。
 フランクルは、精神医学者である。その冷徹な眼差しは、人間の精神状態を見つめる。たんに感情的に報告するしかない通常の人々とは異なり、精神医学的にどういうことなのか、分析しながら見つめているように窺える。果たして現実にそんなゆとりなどあるわけはないので、そのときはもう生きるためにのみ生き、生きようとしていたのではないだろうか。
 いや、どんな言葉も、この本の事実の前には太刀打ちできない。自分の思想の空しさを、これほど覚えることもそんなにない。
 実録的な部分は、名もなき小さな存在がその状況の中でいかに生きていたのかを淡々と語る。その後で、精神医学的な分析や感想をかなり綴る構成になっているのだが、私はこの部分が実によかった。抽象的な表現が、実に人間の真実の部分を指摘していると思えたのである。テヘランの死神のたとえも印象深かったが、私がとくに唸った部分を引用させてもらうことにする。
 それはニーチェの「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」という言葉を引いてからの部分である。
 
 したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
 ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。
「生きていることにもうなんにも来たいがもてない」
 こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。(128-129頁)
 
 これは、現代の風景を描いていたのでは、ないはずだったのだ。「生きる力」がないというのはどういうことか、ずばりと言い当てているのではないか。そう思ったのである。




Takapan
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