本

『日本の大和言葉を美しく話す』

ホンとの本

『日本の大和言葉を美しく話す』
高橋こうじ
東邦出版
\1400+
2014.12.

 いい本だ。タイトルのとおりである。大和言葉を集めた本で、辞典のような機能は期待できないので、エッセイと思って読むといい。ただし、どこからどのように開いて読んでもよいので、なにげなく手にとってぱらぱらと見入るだけでもいい。テーマがある程度組まれており、語らい・もてなし・学びなどなどの項目ごとに、いくつかの言葉がピックアップされている。また、その項目自体、言伝・交じらい・そぞろ歩きというように、美しい言葉になっているものがあり、味わいはそこかしこに潜んでいる。
 柔らかな言葉は、訓読みを基準とするが、それは漢字の世界、漢字にならずとも、大和言葉というものは元来あるのであって、私たちはそれを今に受け継いで生活している。言葉は思考ともなり、感性をも形作り、生活を構成し、人生を貫いていく。
 だが、その柔らかな言葉が、近年減っている。理解できない世代が育つのは、それなしでいわば機能的に過ごす社会生活をよしとしているからでもある。使わなければ理解もできない。次の世代に伝えることもできない。そもそも、大和言葉を使わなくても機能する世の中というものが、私たちの心をスカスカなものにしているようにさえ思う。
 私は、この大和言葉が好きである。まだよくなじまなかった若いころだと、背伸びしてでも、文献に触れ、文学作品に触れては意味を調べるなどして、語彙を増やしてきた。同世代の中では、大和言葉についてはいくらか多く知っているうちだと思う。しかし、それでもまだ足りない。この本の中にも、使ったことのない言葉がいくつも見られた。それで、勉強になった。しかし、著者とさして世代的に違わない私としては、おそらく著者もまた、私のような過程を経て古語に馴染んできたのかもしれない、と思うと、共通項の多いことに気がついた。
 この大和言葉を、美しいと思うかどうか、そこのところさえ怪しい時代になってきたのだろうか。漢語も多いが、それ以上に怪しいカタカナが多い。古来の言葉には、古来の心が隠れている。私は思うのだが、右翼サイドの人々が、大和言葉ではなく漢語を多様するというのは、根本的に間違っているのではないかと思う。国を愛することを第一とするのならば、徹底的に大和言葉を貫くべきだと思う。もしそうでなく、漢語のスローガンをモットーとするのならば、それは日本古来とか日本の伝統とかいうのではなく、明治以来の特殊な情況を日本の伝統だと勘違いしているのではないか、と思われるのである。
 それはそれとして、これらの言葉には、もうひとつ味わい方がある。それは、「讃美歌」の歌詞である。60年を数えつつも、今なお多くの教会で使われるか、あるいは無視できない存在として残っている、それが日本基督教団讃美歌委員会による『讃美歌』である。その歌詞は、実にこの大和言葉で満ちている。いい大人でも、理解できないほどの歌詞になってしまっているのはまずい点があるのは確かだが、どうしても日本語音としては歌詞に短く意味を載せねばならない以上、古語の簡潔な表現が都合がよいというのも本当である。そこに使われている語彙が、この本にはなかなかたくさん載っているのである。
 讃美歌については、意味がまだ伝わる、ぎりぎりの時代ではないかと思うのだが、この本が広まることにより、讃美歌の歌詞がぐんと身近になって、讃美歌のもつ値打ちがまだこの後までも続くようなきっかけになりはしないか、と思うのである。
 古語とまでは言えなくても、日常使われにくくなった言葉、またそれゆえに、日常的な和語もまた、若い人たちには通じにくくなっているのが現状である。もっと響きが優しく意味を温かく包みながら伝える大和言葉を、大切にしていきたい。私のからだの一部のようになっているこの言葉が、子どもたちに伝わっていくことができますように。




Takapan
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