本

『不思議な薬草箱』

ホンとの本

『不思議な薬草箱』
西村佑子
山と渓谷社
\1500
2014.3.

 インターネットの書店で新刊書を調べるときに、たびたび目にした本であった。というのは、「聖書」で検索をかけるのが日常であるため、この本の「魔女・グリム・伝説・聖書」という部分で引っかかってくるからである。
 著者は、ドイツの魔女と薬草とに詳しい人らしい。たんにファンタジーが好きという人であるわけでもないようだ。存じあげなくてすみません。
 聖書に出てくる植物ということで、本が出ている。だが私の知る限り、それらは聖書が中心だ。聖書に、耳になじまない植物が出てくる、あるいは、実物を見たことがない植物の名がある、それは実はこのような花で、このような香りがして、当時は人々がその花を云々、といった具合である。聖書を理解するための補助手段にすぎないし、あくまでも主役は聖書本文なのだ。
 しかし、この本は違う。私も当然そのような関心で本を開いてみたわけだが、全然関心の違う土壌で、その薬草についての蘊蓄を滔々と聞かされるような気がするのだ。しかもその熱意と巧さに、思わず惹きこまれていく自分を認めざるをえないときている。ちょっとジェラシーを感じてしまう。
 聖書に関する部分にしか私は理解を示せないので、そこを開くにしても、聖書をきっちり調べあげて書かれてあることが一目瞭然である。ちゃんと聖書を引いてくる。確かにそこに書いてある。だが信徒としては、そんな植物の名による小さな言い回しに、興味がないというふうにしていなかったか、反省させられる。
 イエスは違う。小難しい神学や理論を持ちだして喜ぶエリートたちが優越感を覚えるような神殿政治の支配する中で、律法に弾き出された、罪人呼ばわりされた人々が、一度聞いたらすぐに神のことが分かるように、動植物のことを持ちだしていたのだ。福音とは何だったのだろう。それは、生き生きと実感できる真実である。空理空論ではない。生きた福音は、たとえばこの植物のことだったのだ。いうなれば、この本で生き生きと描かれている植物たちのあり方が、福音を伝える器であったのだ。
 イエスの言葉の中に、当時人々が、薬草の十分の一を税として収めているくだりがある。今の私たちにとり、什一というのは現金だ。そうとは限らない、などという説教をも聞くが、実質現金である。その額が報告され、予算化される。もし、薬草が収められていたら、どうなるのだろうか。しかしイエスの時代、収めるというのはそうした現物でもあったことがちゃんと書かれているのである。私たちは、信仰生活について、考えなおさなければならないのではないだろうか。
 香りという点で聖書で特筆すべきはナルドの香りであろうが、これは、今ナルドと想定されている種類のものからすると、必ずしも芳香ではないという。むしろ臭気を覚える人が多いのであるらしい。ただ、それはティーにすると味わい深いものだともいうし、香りというものは分からないものだ。しかも人により趣味や好みが違うはずだから、さらに奥が深い。ただ、高価なのは間違いないらしい。聖書の理解のために、この高価という点では狂いがないようだ。鎮痛効果のようなものも期待される植物ではなかったか。イエスの痛みを和らげる思いやりもあったのかもしれないと考えると、少し心が騒ぐ。
 具体的なモノについては、知っていれば豊かなイメージが広がるが、知らないと、聞いた知識でしか捉えられない。実際に知るということが体験することであるというのには合点がいく。こうしたサブカルチャー的な本は、キリスト教の正面玄関には置いていないので、知る機会があれば積極的に覗いてみたいと願っている。




Takapan
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