本

『礼拝生活の喜び』

ホンとの本

『礼拝生活の喜び』
ジョン・マッカーサー
松代幸太郎訳
いのちのことば社
\1785
1988.1

 霊とまことによって礼拝しなければなりません。──しばしばクリスチャンはそのように聞かされ、また祈る。自らもそのように自分に言い聞かせて、魂を奮い立たせることもある。
 では、その意味はどういうところなのか。この言葉の指すのはどのようなことであるのか。私は説明できるだろうか。
 いや、説明しようとすると、えらくかかる。というより、クリスチャンがその一生涯をかけて、初めて示すことができるようなものであるかもしれない。
 それでは礼拝とは、かくも苦しい修行なのか。そんなことはない。
 この霊想書は、礼拝は喜びであるという中心を外さない。ただ、自分でその中心の的を射ていると勘違いをしている者はいるだろうという点はしきりに繰り返す。あるいは偽物のクリスチャンだというと、言い過ぎであろうか。それほどに、礼拝をどう捉えるか、あるいはまた、礼拝をどう生きるかということは、そのクリスチャンの救いや祝福に直接関わることであるともいえる。
 必ずしも、論理的な筋道ではない。かといって、気ままに綴ってあるわけでもない。強いて言えば、霊の流れに沿った展開である。その意味でも、この本は私たちを自由な風の中にひきこむ力をもっている。礼拝とは何か、定義するというほどのものでもないし、それを証明しようとするものでもない。何かの証明めいた説明も、どこか唐突で決めつけがちである。だが、それは聖書が言っていること、聖書の神が求めていることとして、主張して憚るべきことではない、と著者は畳みかけるかのようである。
 聖書が縦横に引用される。それを辿るだけでも楽しい。そのことにより、聖書が旧約新約いつの時代にも同じ霊に貫かれており、イエスの示した礼拝の仕方というのが、旧約の根底とぴったり一致していくことが手に取るように分かってくる。非常にレベルの高い一貫した説教のように聞こえる本である。
 アメリカの中に、真の礼拝があまり見られない、と著者は嘆く。それほどに、求めるレベルは高く、そして人間を見てなどいないことが分かる。あるのはただ、神の礼拝のみ。しかも、この礼拝を真剣に捉え直すところに注がれる恵みの大きさもまた、それに応じて理解している。
 さあ、いったい、礼拝とは何だろうか。
 読者の生き方を変えたのは、もちろん救いをもたらした神の業であったろう。だが、こうした本で、私たちは生き方が方向を換えるのみならず、たしかにあるものを超えていったということを自覚するものであろう。
 教会の儀式的な礼拝だけのことを言っているのではないけれども、教会における礼拝というものも、その質を変えていく力を、この本は有しているだろうと思う。




Takapan
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