本

『世界を信じるためのメソッド』

ホンとの本

『世界を信じるためのメソッド』
森達也
理論社
\1200+
2006.12.

 有名な本のようだ。学校の教科書にもこの人の文が掲載れているし、入試問題などにも確かあったと思う。中学生あたりに読んでもらうのにたいへん適した内容で、もちろん小学生でも、本がちゃんと読める子どもには問題なく読むことができる。
 サブタイトルが「ぼくらの時代のメディア・リテラシー」である。メディアのリテラシーという問題が広く知られるようになって、それを子どもの視点に立って考えてもらおうという呼びかけである。こういうのが難しい。自分で自分なりに理解するというのは、比較的容易である。だがそれを他人に説明するといなると、とたんに難しくなる。さらに、子どもに対して、分かるように説明するとなると、才能が必要になる。
 テレビの抱える問題は何か。それはもちろん多方面から指摘されている。さらにいえば、テレビというものが生活や思想の中に占める割合は、年々もはや少なくなっていっている現状である。しかし、だからといってテレビの意義が減ったということもないし、テレビのもっていた危険性が減じたなどとは言えない。ネット社会になり、情報が双方向性を増していくと、こんどはテレビを制作していた側と私たちひとりひとりとが重なってくることさえある。だがなんと私たちは無責任に、SNSで、あやふやな情報を発信していることだろうか。
 著者は、自身のメディアにおける体験を軸に、説得力のある言葉で子どもたちに迫る。自身は、何か真実を伝えようとしたものの、商売の原理によりそれが否定され、会社を辞めさせられるような事態を体験しているが、その動機が、この本につながっていることは明白である。ひとつの理想であったかもしれない。何かこだわりのようなものであったかもしれない。しかし、自分の生活のために、適度に目をつぶる形で、メディアとはそんなものさ、とスルーしていくことのできなかった、ある意味で不器用な著者の生き方が、いま問いかける声になってこうして現れた。
 そのひとつの姿は、オウム真理教事件であった。マスコミは、その残酷さや凶暴性をイメージさせるように報道すべく突き進んだ。しかし著者は、現場においてその信者たちの、至って善良な振る舞いを見て、報道の仕方としてそのイメージ戦略が適切でないと感じた。いわば、ただそれだけのことである。いわば「絵をつくる」とでもいうのか、撮影現場における「虚偽」が当然のものとなっている現状の中ではあるが、当事者も承知の上での「やらせ」とはまたひと味違う、人の権利や名誉にも関わってくる問題において、あるいはまた、このオウム真理教事件の本質を見誤りかねない問題において、大切なところに光を当てて指摘するという使命を、著者は覚えたのである。
 たしかにそうだと思う。妙な新宗教が若者を凶暴化させた、というイメージを世間に振りまいたとき、世間の人々は、自分とは別世界の人間が凶悪なことをした、という正義感だけしかもつことができない。しかし、事はそうではない。誰もがなりうるのであり、誰もがその境界線にいるようなものだという自覚をもつことが必要であろう。いや、すでに誰もが彼らと同じようにひとつの号令で一気に賛同して、あるいはやむなくか、悪を平気でなすように動いていくかもしれない。戦争も仕方がないじゃないか、という意見をもつだけで、世界は大きく変わってしまうものであるということを、自覚するのかしないのか、それだけでもまた違うものであろう。自分は無関係ではない、当事者なのである、その思いの欠落が、このメディアのリテラシーにおいて、最大の問題ではないかと私は感じるのである。
 そういうことを、小学生から読めるような内容の本において伝える本書は、貴重である。そしてまた、いつものことながら、これを大人が読むことにより、ストレートに問題を受けとめ、自分にもその危険があるのだということ、あるいは時に、自分こそまさにその危険を振りまいている当人であるということを、知る必要があるのだ。
 著者は、若い世代に希望を託している。この戦争も、飢餓も、不平等も、君たちがこの本にある問題を真剣に受けとめ、考え、打破するように生きてくれることによって、きっと解決することのできる問題なのである、と。素朴な信念だが、このようなバトンタッチは大切である。若い世代も、そういう期待を待っているのであり、それを力にして立ち上がることができるのではないだろうか。自信のない若者たちへの、勇気あるエールである。私もまた、そのような言葉を、贈りたい。




Takapan
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