本

『<悪口>という文化』

ホンとの本

『<悪口>という文化』
山本幸司
平凡社
\2520
2006.11

 悪口というのは、この場合、影で密かに口にするというものではなく、明らかに他人に分かるように言う、あるいは公言する、という意味合いをもつ。歴史学の見地から、このようなことが取り扱われたことがあるのだろうか、と思われるほどに、新鮮な響きをもつタイトルである。
 そもそも歴史の教科書にある歴史は、「誰の」歴史なのだろうか、と思う。日本の場合で言うと、それは天皇であり、貴族であり、武士であり、将軍である。庶民の生活は、かろうじて農具の発達に現れるほどである。文化でさえ、とびきりの職人や僧侶でなければ顔を出すことがない。
 庶民の生活は、歴史にはなれないのである。
 それだから、日本の伝統が男尊女卑であるなどと、怪しい説得のもとに国家統制を強いようとする動きが、いまなお圧迫してくるのであろう。庶民の生活においては、女性はそれほどに低い立場ではなかったという生活実感は、切り捨てられてしまっているのである。
 ここに取り上げられた「悪口」というのは、文献の片隅にちらほらと出てきたり、世俗的な記録や文芸に現れたりするものであろうか。しかし、この一つのことにこだわって、切り捨てられてきた庶民の歴史という、数から言えばもっとも多い人々が味わってきた思いを、明らかにしようとするこの類の歴史書は、私は好きである。
 悪口をたたくというのは、どこか不満やストレスの発散の場をつくることであり、また、暴力などへ向けられかねないエネルギーの昇華方法として、利用されてきたようである。そのことが、様々な歴史的資料から紹介される。また、それは洋の東西を問わない。著者は日本中世史が専門のようだが、広い見聞を利用して、たくさんの面白い話題を提供してくれる。
 こうした、心のこもった著書は、「あとがき」に味わいがあることが多い。
 ここを読んで、私は大きく肯くところがあった。悪口への研究が少ないというのは、言葉の真の姿を隠しているというのである。それは現在、空虚な言葉が、いかにも美しい姿で掲げられて、その建前こそが本物であるというふうに紹介されているが、言葉への不信を招くことにしかならないと批判される。言語コミュニケーションが無力になれば、「問答無用」の世界がかつてのように展開する可能性がある、と著者は言う。
 歴史は、学ばなければならない。今の自分たちが当然と思いこんでしまいそうなことも、歴史的には異常であったとか、かつて似たときに恐ろしい結末が待っていたとか、実験のできない現実の歴史においては、せめてもの教訓としなければならないのだ。
 本の内容もさることながら、この歴史観を支える本書を、応援したいと思う。




Takapan
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