本

『戦争で死ぬ、ということ』

ホンとの本

『戦争で死ぬ、ということ』
島本慈子
岩波新書1026
\777
2006.7

 憲法第九条改正に賛成・反対と声がする。自衛隊の海外派遣に賛成・反対と声がする。それが悪だという意見もあれば、悪ではないからよいのだ、という意見もある。靖国参拝が良いとか悪いとか声が向かい合い、特攻隊を思い出して涙する首相もいる。
 しかし、問題は、それらが良かったか悪かったか、さらに言えば、誰が悪者なのか、ではないはずである。人間社会は、知らないうちに傾いていき、気がついたら取り返しのつかないところまで転がっていっていた、ということが起こりうる。そのことを、過去の戦争から学ぶ必要があると思うのだ。誰かが悪いのではなくて、人間には、そのような傾向性があるのだ、と。
 この私のスタンスと、この本の著者のスタンスとは、似た角度をもっていると思う。そのアングルから見た憂いが、実証的に集められ語られていると感じた。
 爆弾が近くに落ちる。火の手が上がる。人が倒れる。そして顔を上げて、最後の言葉を何か呟いて、ばた、と力尽きる。私たちが、戦争ドラマで見る、戦死(民間人であっても)というのは、こんなふうな姿である。そんなはずはない、と私は、戦争を直接体験していないながらも、思っていた。アフガニスタンやイラクへの空爆の下で、あんなふうにロマンチックに人が亡くなっているはずがあろうか、と。
 もちろん、テレビドラマでそんな風景は描きようがないから、ああした死に方を描かざるをえないのである。しかし、それは私たちの想像力を死滅させる。破片が体中に突き刺さり目玉が飛び出るくらいならば、まだ軽い。からだがばらばらにちぎれて吹っ飛ぶこと、腸が飛び散っていくこと、首が吹っ飛ぶこと、ぐにゃぐにゃに折れ曲がったり、燃えて小さな黒こげになったり、死体が水を含んでまんまるにふくれあがったりすること。そして、その臭い……。
 自爆テロと言われても仕方のないような――現に、2001年の同時多発テロは、「カミカゼ」と称されている――特攻隊を、美しく語る、「国」の代表者は、避けようもなくその特攻隊に強いた「国」の側に立つ者であることは変わらない。殺した者が、死んだ者を美談に仕立てるというのは、何のためなのか。
 疑問や怒りは、いくらでも沸いてくる。
 元特攻隊員は、「一色に染まっていく時代の怖さがわからない、それこそが平和ボケだ」(36頁)と語る。「戦争っていうのは急にはじまるんじゃないですよ。どんどんマインドコントロールをしていくんです」(37頁)とも。
 城山三郎は語っている。「言論の自由は基本前提です、人間が幸福に暮らすための。言論の自由がなくなれば、世の中は真っ暗になる」(42頁)と。
 著者は、「戦争は必ず言論統制をうみ、コントロールされた言論は死のリアリズムを遮断する」(131頁)と語る。私が、このワイドで、言論について語ろうとするのも、いわばそのためなのである。
 経済的格差そのものが悪いのではないが、「格差を肯定する社会においては上流から下流までさまざまな動機から戦争への期待が生まれ、やがてそれらが一本化していくのではないかと、私は危惧している」(158頁)と、著者は心配している。現在の日本が危ないと予感させる一つの理由である。
 憲法第九条を改めさせないという動きが、こうした危惧を底に抱え、言論の自由の問題と共に、いわば論理的に進められていくのならば、私はそれに賛同しよう。最大静止摩擦力を超えないように、食い止めるために必要であるなら。
 日本人が得意とする、「しかたがない」という言葉を、殺される側も殺させる側もが使うような時代とならないように、願いつつ。




Takapan
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