本

『笑いのこころ ユーモアのセンス』

ホンとの本

『笑いのこころ ユーモアのセンス』
織田正吉
岩波書店
\2100
2010.6.

 関西の芸能の分野においてこの著者を知らなければモグリである。笑いとは何かを追究し、研究もしている。多くの芸人を見出し、支えてきた。各種演芸番組の構成を手がけてきた。
 御歳80をやがて迎えようとする著者が、笑いについてひとつのまとまった見解を示した一冊。30年前に出版した『笑いとユーモア』を受け継いで、さらに笑いがより広まっていった昨今の状況を踏まえ、変化した笑いも抑えつつ、自分が見てきた戦中戦後の笑いや、古典の中に見る笑いなどを拾っていく。
 笑いは、商品となった。しかしまた、日常生活の中の笑いもある。何故人は笑うのか。ユーモアだのギャグだの、ジョークだの、笑いを示す言葉はたくさんあるが、それらはどう違うのか。それは決定できるような定義ではないが、極力試みている。桂枝雀も実はそのような研究に余念がなかった。道半ばにして人生を終えてしまったのは残念である。
 子どもの笑いは基本的には語彙の欠如にあるのだが、大人はそれを新鮮に捉えているという。それをまた、芸能の中に取り入れることもある。しかし、笑いの心理を分析するにあたり、私たちの思い込みまたは常識といったものを外していく点が強調されていく。ある凝り固まった観点と視野から解放されて、別の角度から物事を見るとき、ユーモアが、笑いが生まれることが多いのである。そのため、著者は、パラドックスにも光を当てる。それはかなり学術的に扱われる素材である。いや、この笑いの研究自体がアカデミックであってよいのだが、漫才師やコントの実例が並ぶような中で、ゼノンのパラドックスが詳しく扱われているというのは、どこか不思議であり、私にとってはそれそのものがユーモアでもあるように感じられる。ソフィストの話、プロタゴラスの弁論術と弟子とのぶつかり合いも、有名な話ではあるが、こういう中に並べられると、それも笑いなのだと改めて思わされる。
 いや、不思議の国のアリスがナンセンスの部類に入れられて改めてそれが取り上げられると、私はさらに視野が柔軟になっていくし、芭蕉の芸術が元来「俳諧」であったことを思うと、諧謔なる可笑しさがそこにないはずはないという意味で、改めてカエルについての先入観を外した芭蕉の句に驚き、そしてなんだか楽しくなってくる。同じことでも別の角度から、あるいはまた別の角度から見たら、思わずくすりと笑うようなことになるのだ。
 笑いを、何も哲学的な分析にかけたわけではない。どちらかというと、帰納的にたくさんのユーモアやコントなどを集めて紹介しているものであり、呼んでいて本当に楽しくなる。私も子ども相手に授業をするが、まんざらユーモアのセンスがないわけではないな、と励まされるような気もする。しかしただ無秩序にコレクションしたものでももちろんなく、統一的に整理されたコレクションである。呼んでいて実にスムーズに案内されている感じがしてくる。
 と、このように感心しつつも、落語のサゲではないが、この本はあとがきで、すべてをひっくり返すような結末にも触れていた。そこに書いているのは、マーク・トウェインの言葉。「ユーモアはカエルに似ている。解剖すると死ぬ」
 決して笑いを分析した哲学者の考えを集めたものではない。この本の立場は、実用になるユーモア論であるという。まことに、笑いのプロのみならず、ただ苦悩の中に生きていくだけではないはずの人生を生きるすべての人が、いまいちど「笑い」というものについて振り返ってみるために、開いてみるとよろしいだろうと思う。ここには、他人を傷つけるような笑いは一切触れられていない。そういうのが過去にあった、とは書いてあるが、それを笑いとして奨励するような視点はどこにも見られない。昨今の「お笑い」の中に散見する、そのような毒や棘を、敢えて笑いやユーモアとして数え上げていきたくないというのが著者のスタンスなのだろうか。私はそういうスタンスなのだが。




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