本

『フローリアの「告白」』

ホンとの本

『フローリアの「告白」』
ヨースタイン・ゴルデル
須田朗監修・池田香代子訳
日本放送出版協会
\1680
1998.10

 いいところを持って行かれた。この観点は、考えたことがあったのだ。アウグスティヌスの『告白』の、裏読みである。
 ゴルデルは、哲学の先生から作家に転向した。ノルウェーという地から、全世界にその名が轟くことになったのは、知的に読ませるストーリーテラーとしての腕前もなかなかのものだからだ。私も、『ソフィーの世界』と『アドヴェント・カレンダー』を楽しく読ませてもらった。
 それが今回は、『告白』を責めた。南米の古書店で著者自身が見つけたという、手紙文書。店主との駆け引きも面白いが、その内容が、また粋である。アウグスティヌスの『告白』に、罪の原因であるとして登場する女性、その女性がこの手紙の主なのである。切々と、アウグスティヌスとの思い出から、その『告白』でかっこつけた禁欲的信仰とやらに抵抗する姿勢を、その『告白』の章の展開に併せて描いている。
 男のアウグスティヌスが、今教会の偉い立場に出世して、女を欲望に誘う存在のように描き、禁欲する自分の姿を、キリストに従う弟子としての姿勢だと固く信じているのは、当時ももちろんだが、その後もキリスト教世界にままあることである。しかし、この手紙の主フローリアという、花咲く言葉を匂わせる名をもつ女性は、聖書にはそんなことは書いていない、と訴える。
 果たして、この手紙は本物なのか。ゴルデル自身、この手紙の著作は自分ではないと言い、長いこの書簡を挟む形で登場するだけである。一つのルポのように描いている面白さがある。いったいどこまで本当なんだ、と著者に直談判したくなるような、見事な構成である。
 思い出すのは、芥川龍之介の描く「桃太郎」。それは、鬼の側から描いたものであった。鬼退治をした英雄桃太郎、というのが通常の観点だが、鬼の側から、平和な鬼の国にやってきた桃太郎が、無抵抗な鬼を一方的な暴力で痛めつけ、財宝を持ち去った、という設定になっている。鬼はしばしば、日本人のタイプのうち縄文人系統を表しているとも言われるから、弥生系が縄文系を駆逐していく様を描いたかのようである。
 偉そうに、禁欲禁欲ということで神に近づいたと嘯く、お偉いキリスト教指導者。それがなんと滑稽に見えてくることか。この女性は、訴え続ける。愛し合うことの方が、よほど神の心に従っているのではないのか、と。
 まことに、与謝野晶子的である。私もそう思ったが、監修者が巻末の「解説」でこの名を持ちだしていた。そして、この女性が、当時のそういう教会の「洗礼」は受けていない、としきりに言い、自分が聖書からみる神はそういう神ではない、と時々叫んでいるのも、そういうことなのだというふうに思った。
 肉欲の原因のように歴史上扱われることとなった、この捨てられた女性。息子の救いのための理想の母としても取り扱われる、アウグスティヌスの母モニカさえ、なんと卑しいことかというように見えてくる。女をとにかく追い出しにかかるのである。
 弱者の立場から見直すこと。実はイエスは、そのことを、ガリラヤからユダヤをさまよいながら、確認し、訴えてきたのではなかったか。桃太郎ならば鬼の目から事件を見ることは、有意義であったのだ。
 注釈を右頁にまとめ、本文はすべて左頁だけに収まっている。斬新な編集である。こうした遊び心のある本は、その後減ったりしていないだろうか。




Takapan
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