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『長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産』

ホンとの本

『長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産』
高原至写真・横手一彦文
ブライアン・バークガフニ英訳
岩波書店
\1995
2010.4.

 長いタイトルで紹介したが、そこに製作者の思いがこめられている。
 私的に撮影していた、戦後の浦上天主堂の姿が、未公開写真としてここに明らかにされた。
 言うまでもなく、長崎の原子爆弾は、この浦上天主堂のほぼ上空で炸裂した。小羊たちが屠られるかのように、祈りの場は爆心地として名を留めるだけで、建物そのものは崩壊した。いや、一部の壁が立ち残っていた。
 明治初期、光の時代が来たとようやく姿を現したキリシタンたちは、未だ禁制であったということで次々と迫害を受けた。というより、当時の法に則っただけだと権力者は言うであろう。そして、多くの人々も。
 欧米諸国の圧力もあり、その後キリスト教は認められた。だが、生活レベルでの差別や苦労は想像を絶するものであったことだろう。そういう中で、ようやく会堂がそびえ立った。浦上天主堂が、人々のまさに血と汗と涙によって建てられたのである。
 その二十年後、アメリカ軍からの、この人類への二度目の投下となった原子爆弾によって、教会堂は見るも無惨なものとなった。
 結局、それは1958年に解体された。そして今の教会堂へと作りかえられていく。
 その38年後、広島のいわゆる原爆ドームは、世界遺産となった。長崎のこの旧浦上天主堂も、もし遺っていたら、そうなったのではないかと思われる。祈念の像はある。だが、本当に市民すべてに、あの原爆の象徴として認められてはいない感があるともいわれる。その点、この傷痕そのものである旧天主堂は、原爆の象徴となりえたという声がある。
 写真は、白黒であるが、当時の息づかいを脈々と伝えるように撮られている。実に重い、そして記録性もまた伴う、実にすばらしい写真ばかりである。
 これが世に出た意義は大きい。世界に発信できるように、英訳も載せられている。その記述は、日本におけるキリシタン弾圧史を含めて、この浦上の歴史や平和への祈りに満ちたその後の動きも説明されている。
 なんだか、こうした言葉による紹介が、やたら薄っぺらいものに思えてならなくなった。とにかく、ただ見て戴きたい。それだけである。




Takapan
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