本

『共に生きる生活』

ホンとの本

『共に生きる生活』
ディートリヒ・ボンヘッファー
森野善右衛門訳
新教出版社
\1600+
2014.6.

 復刊というわけではないが、新しい訳で新しい装丁となった、ハンディ版としての定評ある一冊。全集に収められるものとしては周知であったが、単行本とされる価値があるとされ、そのためにもこうして小さな本となることは喜ばしいものである。
 それにしても、まいった。痛かった。心がグサグサと刺激された。まことに、尤もなことである。キリストの福音というものが、これほどに自己吟味をさせるものだということ。実に厳しい指摘が続く。しかも、それは当然なのである。どんなに自分が、問題から目をそらしていたか、またごまかしていたかということを痛感した。このことをボンヘッファーは、自分が神になっている、と称している。つまり、本当の価値判断は神がなすはずなのに、自分が判断し、自らさえ裁き、これはいいことだ、と自分に許しを与えていることなのだ、という。その通りだ。聖書に生きるとなれば、それ以外に視点はない。だのに、どんなに生ぬるいものであったのか、自分が恥ずかしくなる。キリスト自身が、最大の恥を受けて十字架にかかったのではなかったか。それをのほほんと見送って、あまつさえ自分で自分を許すような甘ちゃんであったことについて、後悔しないではおれなくなる。
 ヒトラーをなんとかしなければ、という動きから逮捕され、処刑された。あと1か月なんとか時間を稼げたとしたら、命は助かって戦後を迎えたのではないかと思われる。その生き方そのものを、何も知らない者が軽々しく言うべきではない。その時に何をなすのが最善であったのか、まさに懸命に考え、行動したのだ。ひとりひとりが、キリストに祈り、その声を聞いて立ち上がったのだ。そしてその中から、この黙想が成立した。
 共に生きる生活。牧師やそれに匹敵するような立場の者たちが、共同生活をすることで研ぎ澄まされていく、その道を模索したこの著作は、1か月の中で集中的に書かれたという。これは先にご紹介した、高倉徳太郎の『福音的キリスト教』に近いものがある。実はその本と、装丁が殆ど同じなのである。そしてこの時代にある意味で復刊されたものとして、ほぼ同じ時期に出版された。新教出版社の意図や願いがあるのだろうと思うが、どちらも名作である。この類似については、この本の最後に解説してある中に書かれている。またその場所で、これはキリスト者の精神生活について書かれた歴史上の書物の中の五本の指に確実に入るというふうに、訳者によって書かれている。それほどのものだとは存じ上げなかったが、私はそれもなるほどと頷ける。
 こうした生活を実践することで、キリスト者は変わる。いや、キリスト教会は変わる。キリスト教界も、変わる。ひいては、福音の拡がりも、必ず変わる。へたな批判や偏見でこれをごまかすところに、本当の祝福はないだろう。私たちは、この提言を非難することで、ますますファリサイ派に近づいていくことになるだろう。様々な学びの場でもこのテキストが使われているというが、それは広まってほしい。また、私自身も、繰り返し開いて、指針としていきたい。もとより、聖書が告げていることに対して、従順になりたいと願わざるをえない。




Takapan
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