本

『知的創造の作法』

ホンとの本

『知的創造の作法』
阿刀田高
新潮新書543
\756
2013.11.

 かつての『知的生産の技術』がやはりベースにあるのだろうか。一定の年代以上の人には、この本は画期的な価値を有した。「京大式カード」なるものはすばらしい道具であり、大学生協にもこれがずらりと並んでいた。今それらは「情報カード」という名前で百円均質の店にも並ぶようになったのだが、昔は、かなり高く感じ、大学の哲学会で予算が余ったときに、特注で大量のカードを発注したということもあるほどのものだった。
 それはそうと、この本は、やはり著者の背景を大きく投影することになるわけで、小説の作法というような内容になっている。膨大な著作を誇る人である。また、ギリシア神話や聖書についてそれらを紹介する本をも著しているが、そのためにはたいそうな読書量が必要になることは言うまでもない。その聖書理解はかなり大雑把だし、的を外しているようにも見えるのだが、それにしても、ことさらに嘘を宣伝している訳ではない点では、さきごろ放送されたテレビの実にお粗末な聖書紹介と比べるとまだ見るべきところがあると言える。いや、つまりはなかなかの勉強家であるということは認めなければならない。
 自ら年齢を重ねてきたことの自覚もあるのだろう。自分の学習方法を明かすということに出たのが本書である。それはまず、「ダイジェスト」というキーワードから始まっている。要するにどういうことなのか、という把握は、決して簡単なことではない。「要約せよ」が大学入試に使われるわけで、誰でもできる常識だとは言えないわけである。しかもこの場合、アイデアを生み出すためのダイジェストである。物事の本質を抜き出す。その派生的な特徴でもいい、抜き出して目の前に並べる。こういった技術が必要なのだという。ただ、こういった事柄の説明と言いながら、著者は実に表現豊かに提供しているため、この本自身がまるで一冊の小説であるように、飾られて語られる。つまりは、箇条書き的なテクニックのまとめというわけにはゆかない。その点は、望まないほうがよいだろう。
 アイデアをもたらすいろいろな人の例、著者が知る蘊蓄の中で分かる歴史の中に見られる知恵、そうしたものが、出てくる出てくる、楽しく読み物として読めるような勢いである。最後はより個人的な体験から、自分の作品の生まれた訳などにも触れながら、執筆へ至る道が語られていく。やはり、これが一つの小説のようである。
 こうして、タイトルにあるような、「知的創造の作法」は、やはり「作法」なのであって、「技術」とは呼べない状況にある。また、私から見れば、「知的創造」というのは、風呂敷が広すぎるような気がする。私には「小説創造の作法」でよかったように見えるのだ。それも立派な「創造」だと思うから、それはそれでよい。ただ、「知的」であるのは、空想の創造とイコールではない。それにいて触れていないとは言わないが、どうも付随的な位置でしかないようである。時に聖書を引いてもくるが、面白く読ませてくれるものの、独断的な解釈が「創造」であると呼ぶのに無理があるように、「知的創造」として構えるのが相応しいようには思えないのだ。
 とはいえ、悪口を言っているつもりはない。この本は、ハウツーなりノウハウなりを得ようとして読むと、少し違うように感じる。これ自体を、エンターテインメントと考えて愉しめばよいのだと思う。とくに、著者の作品のファンであるならば、なるほどそうやってあのアイデアを得たのか、と合点するのが楽しみになることだろう。
 本のタイトルいうのは、なかなか難しい。




Takapan
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