本

『たたかいの人――田中正造』

ホンとの本

『たたかいの人――田中正造』
大石真
偕成社
\620
1976.3.

 えらく古い本となってしまった。古本を扱う店で格安で見つけたので購入したという具合である。しかし、子どものための本にしておくのはもったいないほどの内容で、心を揺さぶられたので、ご紹介申し上げようと思う。
 田中正造といえば、足尾銅山鉱毒事件。そのために尽力した人として、社会科の教科書にも載っている。だが、知られるのはそれだけであり、そこから関心をもって詳しく見てみるというような人は少ない。しょせん社会科の授業というのはそういうものでしかないのであるが、それにしては、この人のしたことの重みが残念なことになっているように見える。
 子どものための文学に秀でた著者が、田中正造という人を子どもたちに伝えたいという思いでまとめた本である。しかし、ただの伝記ではない。実のところ、架空の人物もそこに交えている。それを黙ってやれば、フィクションと事実とを混同した作品でしかなくなるのだが、「あとがき」において、その架空性をきちんと説明している。その架空の人物にしても、何かしら一部そのようなことをした人がいたという記録をもとに、想像を膨らませているわけで、まるっきり嘘というわけでもなさそうだ。
 だから史実の記録ではないのだが、しかしここに取り上げた田中正造自身の言動については、十分な資料に基づいており、出来事を十分正しく子どもたちに伝えることができているのだと考えてよい。
 本の初めは、足尾銅山の側の人物を描いている。そして、次第に田中正造に焦点を移しつつ、二人のぶつかり合いへと導かれる構成になっている。そのため、展開が立体的になり、ただの一人物の視点だけの平板な記述を脱している。そのあたり、作者の巧さが引き立つ。
 それにしても、もどかしい。どうしてこうも分かってもらえないのか、どうしてこうも弱い立場の人々が虐げられ続けるのか、どうしてこうも上に立つ側が横暴を繰り返すのか、現代では信じがたいような事態の連続である。それもそのはず、この本が書かれたのは1971年。まだ公害問題が始まったばかりのような時期で、いわば加害者側の論理もまかり通ってさえいた時代である。その意味では、作者がその時期にこれを出したのは、機に適ったものであったとも言えよう。いや、そのときでさえ、訴えるのには、勇気が必要だった時代だったと言えるかもしれない。
 足尾銅山が閉山したのも、この本の出された後である。まだそのときに動いている巨大な組織を相手に描いているということになるのである。たんに、ひどいことがあったんだなあ、という昔話で読むのは、適切ではない。まさに今続いている巨悪への挑戦状というものは、言葉としては格好良いのだが、実際になかなかできるものではないのだ。
 その意味で、著者自身も、「たたかいの人」であるのかもしれない。
 中学生に公民の話をするときに、少し前まではそういう権利など認められなかった、という話をして、比較の上で、現法制を理解してもらうことになるのだが、そういうときに、この本は実に相応しい背景理解を示してくれるかもしれない。明治時代、不平等条約の解消に努める日本政府は、文明国としてのあり方を示すために、大日本帝国憲法を掲げてみるのだが、その実情と適用については、どんなふうであったのか、この本は実によく教えてくれるのである。弱者を美化するために大袈裟に書いている、と思う人もいるかもしれないが、他の様々な面から考えても、恐らくこれは実情を伝えているだろうと思うし、どこか今の時代にも流れているのではないかと思う。私たちの社会の底流を示していると思われてならない。
 キリスト教信仰をもった、というのは言い過ぎではあるのだが、田中正造にとり、聖書の言葉は、その政治活動の中でも小さな役割ではなかったと思われる。亡くなったときのわずかな財産の中に聖書の一部があったことは有名だが、この本にはこうした点については何も触れられていない。子どもを相手に記すことではない、と判断したのかもしれないのだが、人々に悔い改めるようにとのメッセージを送ったことは、決して小さくはない意味があったことだろう。いくらか含めてもらってもよかったのかな、と私個人としては思う。
 しかしながら、より大切なことは、これを今の時代の私たちに、子どもたちに、どう響かせるかである。昔こういう人がいたんだ、とか、偉いなあ、とかで終わらせるのはもったいない。正しいと思うことを正しいと主張し続けること、自分では言えない立場の人々の代わりに、言える力のある人が言い続けることなど、私たちが今このときにも活かしていきたいことが多々あるはずである。そこへつなぐことができなければ、この本が本当に活きたことにはならない。そしてそのように活かすかどうかは、読者にかかっている。それは子どもだけとは限らない。大人自身が、この正造の敵にまわっているのだ、ということに気づかなければならないからである。




Takapan
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