本

『食卓の向こう側10 海と魚と私たち』

ホンとの本

『食卓の向こう側10 海と魚と私たち』
西日本新聞ブックレット17
\499
2007.8

 食というテーマにこだわって、新聞のコラムを通じて世に問うてきたシリーズも、ここで10を数えるほどに深まってきた。新聞で毎日読んで考えさせられていた人も、ひとまとめにして、全体を考えてみるというのはよいことだろう。一過性の驚きに終わらせないためにも。
 今回は、魚。スーパーへ行けば、肉・魚・野菜と並んでいて生鮮食料品として並んでいるものですが、とくに傷みやすい性質をもつ魚は、さまざまな工夫と共に、流通していることがだんだん分かってきます。
 魚屋さん自体、数が減っているというが、心配したほど激減しているわけではないようだ。それは、魚屋という形態が、やはり特殊なものを含み、魚屋というものに、人々がどこかこだわって通っているという現実があるのではないかと感じた。
 実は、私がそうなのである。
 これが、もうやめられない。魚屋で覚えた魚介類の味は、もうスーパーの比ではないのだ。それは、この本を読むと、なるほどそういうわけがあるのか、と裏打ちされるような思いだった。魚をさばけないような担当係しかいないようなスーパーとでは、それは比較の対象ですらないだろう。プロの魚屋さんというのは、もっと見直されていい。というより、魚自体を私たちは見直さなければならない。
 魚が食卓から離れてから、日本人の病気も変わったのではなかっただろうか。
 環境問題への眼差しも当然強い。私たちが日々、水を汚しているという行為をしている点にも、目を向けることを怠らない。そして、やはり食という文化。これは文化である。私たちは、日々餌しか食べていないのではないだろうか。
 今日も、苦労して魚を獲ってきてくれる漁業関係者の皆さんにも、改めてお礼を申し上げたい。「子どもに魚なんか、食べさせないでください!」と、喉に骨を立てた長男を連れて行った病院で叱られたことを私たちは忘れない。それでも、私たちは、子どもたちの皿に魚を載せている。毎日のように、魚の類が食卓に現れる。海草は欠かした日がない。私の、焼き魚の猫泣かせな食べ跡は、父譲りであるが、私の子どもたちも、それを継いでくれそうな気配である。




Takapan
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