本

『死と生』

ホンとの本

『死と生』
佐伯啓思
新潮新書774
\760+
2018.7.

 畑があるとすれば、経済学の方である。しかし、西田哲学に関心が深く、著書もあるという。深く考えることについて、哲学とは少し訓練の仕方が違うかもしれないが、誠実に考えようとする方なのだと思う。
 様々な思想を紹介することで終わりそうな、「死」についての著述も、この著者にかかれば、極めて個人的な見解となる。それを断っているし、それでよいと思う。しかしながら、持ち出す資料もなかなかのものであり、説得力がある。たんに思いつきで書いているのでないことだけは保証できる。多くの思想や資料にあたり、それぞれを根拠としながら、常に自分の眼差しでそれを捉え、自分の心がどのように受け容れるのかを自らに問いかけながら、歩みを進める。これを私は誠実と呼びたいのだ。
 経済的に発展を見込めるような時代ではなくなった、そのように「まえがき」は語る。無限の発展を幻想しているのは、まるで死を考えずに前進を素朴に信じているのと同じようなものではないのか、と著者は問う。こうした、「思想」と呼ぶにしてもあまりに素朴で稚拙な世間の考える風土について、徹底的に拒否反応を示し、真理を問いたいのだという、哲学と呼んでよい営みが宣言されて、いよいよ死について考察を始めていくのである。
 死は極めてプライベートなもので、自分の死は自分のものだ、という安易な幻想がある、ということを著者は早い時期に示す。ひとは自分だけで死ねるようなものではないのだ、と言う。周囲の者がその死を決定していき、手間をかけ、面倒をみていく。死の決断すら、あたかも本人の意志によりなされるようにしておきながら、その実他人が、決めているような現状を鋭く指摘する。
 そして、死について問えば問うほど、実のところますます分からなくなっていく、ということを明らかにする。このように、まさかと思われるような、常識とは異なる結論が、実際ほんとうのところである、というように指摘するのは、哲学的でもあるだろうし、イエスのやり方にも似ているような気がする。死はどうして恐ろしいのか、というように、前提としているかのようなことにいても、改めて問うことにより、恐れとはどういうことであるのか、などのような根底的なことについても検討されていくようになるのである。
 結局、様々な哲学しそうや宗教の考えがあるものの、死後については何も分からないというのが、間違いのないところであるようだ。だからこそ、それはそのように信じるという営みに関わるのであって、そのために、宗教の意義はやはり大したものであるということが明らかにされていく。尤もなことであると思う。
 著者はこの方面への関心が古くからあり、多くの思想や宗教に触れてきた。その中で、自分にとりしっくりくる考え方が、トルストイの死生観であるという。それは晩年の、キリスト教への帰依に基づくものであったが、必ずしも教義的な死生観ではなく、何かしら無への誘いが含まれるものであると著者は捉える。そしてそこから無への問が始まる。著者は自分では、仏教の中にある感覚に自分は近いのだと認識している。不可知の中にある死であり、また死について何か分かったようななりをして言明することかおかしいのであって、無記ともすべきもの、しかしながら「無」ですよ、と名付けてしまった瞬間、それは何かしら在るものと化してしまい、本来告げたかったものとは意志なものになってしまうのだという議論を底流に掲げながら考察を進めていく。
 このようにして、自分なりにたどり着いた仏教的な境地をさしあたり安定した死への見解だとする著者であるが、これを読者に押し付けるつもりはない。そこが制度的宗教とは違うところであろうか。しかし、そんな自分の結論が、どこか「日本人的な死」であることで満足しているのは、それでよいのだろうか、という気もする。というのは、日本人としての著者の死生観が日本人のもつ死生観につながるものであるというのはもちろん分かるが、それだと他国や他の文化の人々がそれにはつながらないというままになることを認めてしまうことになる。日本人という特殊性がそのまま残っていることになるのである。あくまでも、個人的な死生観であることから決して抜けられない。それでよかったのかどうか、私には分からない。もしかすると、自己満足だけの死への覚悟や達観というものだけで終わってしまったのではないだろうか。
 せっかくこれだけの資料を世界各地から、歴史の彼方から拾い集めて対決し、自分をぎりぎりのところまで追い込むようにして、死への考察を続けてきた著者であるのに、まるで、とりあえず自分はこれでいい、他の人は賛同してくれなくてもいい、みたいに読者を突き放してしまうのは如何なものであろうか。
 自分は仏教的な精神のありように関心がある、それでおしまいなのだろうか。但し、これは死を論ずるのが目的だというよりも、死を扱うことで生を充実させたいという隠れた意図が存在することは、著者自ら意識して分かっている。生きているからこそ、様々な思想をもち、考えがどうだと検討できる。そのように弁えることにより、明日を生きようというのであれば、それはよい知恵ではあるのだが、果たして死について考えてきた意義がどこまであるのか、それは読者としては、少しはぐらかされたような気がするのであるが、意地悪な見方なのであろうか。




Takapan
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