本

『したがう? したがわない? どうやって判断するの?』

ホンとの本

『したがう? したがわない? どうやって判断するの?』
ヴァレリー・ジェラール文
クレマン・ポール絵
伏見操訳
岩崎書店
\1300+
2016.4.

 10代の哲学さんぽ、というシリーズの第6弾。
 息子に言わせると、最近こういう本が増えてきたという。私もそう思う。「哲学」というものに彼は興味がある。物事を深く考えていく、あるいは根拠づけていく、そうしたことに関心があり、また何が正しいのか、知りたいという思いが強い。比較的珍しい子かもしれないが、誰の心の中にも、ないわけではない思いであるだろう。
 背景には、日本独特の教育環境も関係しているように見える。宗教や哲学を、教育課程で全く教えない、関わらないのである。そのため、宗教や哲学について社会で論ずるということがなく、あるいはまた、それらを根底に有しての議論というものがないように窺える。教育の中で扱われないということは、それなしでも生きていける社会だということである。
 果たして、そうだろうか。
 フランスのように、哲学を履修しければ進学できないというようなあり方を直ちにするのがよいとは思えないが、物事を論理立てて考えるという学習が、数学でしか養えないというのは、私は不幸なことではないかと思う。そして数学で養った論理を、さあ何に活かすかというと、それが各人の感情に基づくことになるとすれば、恐ろしいことが待ち受けてはいないかと案ずるのである。シーソーの一方に、ただなだれこんでいけば、一気にそちらに傾いていく。そうした時代を私たちも経験しているのだが、再度そうなろうとしても止めるよすががない。学習とは過去の失敗をくり返さないという構造をもつ学びであるが、それがないように見えるとすれば、怖いことなのだ。
 心ある人々が、日本の若い世代に、哲学をしてほしいと願っている。そこでこうした出版が細々と続けられている。翻訳物が多いのも否めないが、ないよりはずっといい。
 今回は、社会法と自由の問題だ。生活環境のレベルから、次第に抽象的なものに進んでいく。何が善で何が悪であるかは、早急に決められるものではない。その背後に何があるのか、という問い方をして、思考を重ねていくしかないのだ。だが、思考訓練として、そうした過程に私たち日本人は慣れていない。決まっているんだ、と圧する者がいるし、みんなそうだから、と責任を覚えたくない生き方を選択する者も多い。
 だが、私は感じる。若い世代には、何かしら自分の考えをもち、表したい、貫きたいと考えている人も少なくないのだ、と。ただ、それが限られた情報や道具の中で、自分の思い込みを唯一真実と考えるような過ちも同時に起こる可能性が高い現状においては、危惧する面もある。より広く見識をもち、様々な哲学的思考を知っておくことにより、自分もまたその一つの誤謬に陥りかけている、などと知ることができる。だから、哲学にもある程度の知識が必要なのだ。哲学史だけを学んだに過ぎないと悪口を言われようと、知らないよりはずっとよいのだ。
 従う自由。この本は、最終的にそこに誘う。正しいことに従うのは、奴隷的なことではなくて、自由の標榜なのだ、但し、そこからまた別の思考に走ることもできるだろう。これが結論であり正解というわけではない。読者が、若い人々が、ここから考えを始めていくという営みがあって然るべきである。そうあってほしい、と著者や訳者も考えているのではないだうろか。
 少なくとも、一読者としての私は、そのように考えている。




Takapan
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