本

『心霊の文化史』

ホンとの本

『心霊の文化史』
吉村正和
河出書房新社・河出ブックス009
\1365
2010.1

 オカルトというと、疑似科学として眉唾物とされるのが昨今の実情であるだろう。また、これが百年二百年前の話となると、科学の発達していなかった時代のまやかしに過ぎないという見解も一般的ではないだろうか。
 古代人は科学の知識がないのでこんな迷信を信じていた……そんなふうに現代人は自分の優越性を誇る。だが、果たしてそうだろうか。どうしてそのような現代人が、テレビ番組で、週刊誌で、星座占いを見ているのか。血液型による性格がどうだなどという話をするのか。根本的に何も変わっていないのではないだろうか。それを、自分は優越していると思い込んでいるところが、実は決定的な問題点であるのだが、今はそんなことを主張しようとしている場ではない。
 サブタイトルは「スピリチュアルな英国近代」とある。そして本文は、19世紀のアメリカにおけるハイズヴィルの事件から始まる。これを一つの象徴のように取り出すことから始めて、その背景にあるイギリスの心霊主義というものを検討していこうというものである。だから、必ずしもイギリスだけの問題を扱っているものではない。
 その事件は、確かにインチキではあった。しかし、それが長いこと信じられていたというのは、それを信じさせる何かが時代にあったからである。
 この本では、それについて、しばしばキリスト教のことが触れられる。つまり、キリスト教会への不信感が、別の形の「宗教」に向かう原動力となったというのである。それでもなお、千年王国など聖書の文化を背景にせざるをえないところがやはり西欧文化ではあるのだが、ともかく教会に従えないことが何かあり、かといって人間は科学一辺倒の説明で世界観を価値づけようとは考えなかったのである。何か、霊的なものがある。何か、霊的な原理が世界を支配している。それは今の教会が言っているものだとは思えない。でもきっと聖書にはそれが隠れているのだ。そうだ、その意味は……。人々は、夢中になっていった。飢え渇いた魂が、神を求めていくかのようにして、新たな聖書理解と霊の理解に向かった一面がどこかにあるように感じられる。
 果たしてこの本の著者がそう断じているかどうかは分からない。違うだろう。私の読み込みである。
 今のクリスチャンは、これをどういう立場から見るだろうか。教会から離れることは愚かだ、だからちゃんと伝統的な教会に従うほうがいい、と思うだろうか。こうした心霊主義もやがて淘汰されていくわけであるから、神の言葉にたてついた悪魔的な歴史の一つであった、と見るだろうか。だが、そうだろうか、と考えたくなった。そんなふうな自己正当化をモットーとするような教会だからこそ、それは違うんじゃないか、と抵抗する人々が現れ、多くの人が従っていったのではないのか、と。日本でさえ、キリスト教界からの報道を見ていると、それを感じる。気持ちは分かる。キリスト教の新聞であれば、協力する教会の賛同を得なければならない。教会の批判などを掲げていけば、誰も協力してくれなくなる。ただでさえ市場の狭い分野である。そっぽを向かれては経営が成り立たない。自然、キリスト教会に翼賛する報道となっていく。これを外の世界の人々が見ると、自分を正当化していくだけの営みに見える、という具合である。
 本に戻ろう。この心霊主義を、たんにオカルト的趣味に留まらず、文化や芸術その他のダイナミックな精神運動として捉えようとする。これが、本の立場である。特に、社会改革と同じ路線にあるという指摘は大胆でもあり、唸らせるものがある。神智学の実態とも重ね合わされ、心理学もそこから実は大発展をするという指摘は尤もである。その方面に詳しい人は楽しく読めるだろう。私は知識はない方だが、当時の歴史や社会風土、学問的環境を思うとき、一つの筋の通った風の道を感じた。時代を包む空気というものと、人の心の中に潜む心の傾向について、いろいろ考えさせてくれる本であった。
 また、この心霊主義は、自己宗教とも筆者は呼び、ひたすら自己の幸福を追求する中で自己を完成していくこと、すなわち自己を神とすることを目標に置くという意味で特徴づけている。「スピリチュアル」という名で商業主義に浸る現代の自己宗教に染まっている人々が、その奇妙さに気づくようであればまだよいのだが。




Takapan
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