本

『信仰と遺産』

ホンとの本

『信仰と遺産』
岩下壮一
岩波文庫青N-115-1
\1320+
2015.3.

 長らく埋もれていたカトリック神学者に、近年光が当てられている。各方面から著作の要請がきているのだが、今の時代に何か意味をもつものとして捉えられたのだろうか。1889年生まれ、1940年没。ハンセン病患者のために闘った人でもある。由緒ある家系の出で行きとどいた教育を受けた岩下壮一は、月刊誌『カトリック』を創刊するなど、カトリックの組織内での精神的なリーダーとして活躍したという。哲学の徒でもあり、カントなどに詳しく、自身アウグスチヌスについては著作物が多い。
 その岩下壮一の、まとまった著作というわけではないが、随想とでも呼べばよいような、必ずしも学問的手続きに則った文章ではないものが集められた、文庫としても分厚い一冊である。注釈を入れると全部で500頁を越える。
 その時代、カトリックの状況がどうだったとか、プロテスタントとの関係の構図など、調べなければはっきりとは述べられないが、言えることは、この岩下壮一の、プロテスタントへの敵意のような棘のある言葉の連続である。何かとあればプロテスタントへの非難をする。とくにルターに対しては見下したような攻撃性をもち、時には、そのようなふうに考えたのには同情を禁じ得ない、というような、上からの目線で、間違って気の毒に、とアイロニーを利かす。これらの派の間の関係は、この時期最低だったのではないだろうか。
 言葉は文語調であり、各町があると同時に、述べ方として今となっては把握しづらい表現がある。簡潔に語られているために、しばしば根拠に乏しい印象もある。しかし、これは論文ではない。比較的自由に述べた文章であるものだから、また、カトリックの領域内への文章でもあるから、プロテスタントの非難めいたものも、むしろ必要とされていたのかもしれない。
 それにしても、近代主義を批判する上で、ルターをけちょんけちょんにやっつけることが繰り返され、プロテスタントの側にいる私としては、ちょっと凹み気味にもなる。
 その後、エキュメニカル運動が現れ、カトリックの側でも歩み寄りがなされており、とくにルター派との和解が進められていることは周知のことであるが、そのうえ、和解宣言もさかんに出され、出版もされている。ここでもご紹介した通りである。しかし、疑うのはよろしくないが、その内実、カトリックのお偉い方々の本音は、こういうところにあるのだろうか、と勘ぐってしまうようになった。この本にあるようなことがカトリックの精神的指導者の手により繰り返し、また言葉の端々において発言されているのだとしたら、昔からの伝統に立つカトリックの今の指導者にとっては、これこそ植え付けられた性格のようなものであるのかもしれない。
 ここに触れられているのは、決して、当時の時事的な話題や例話を多くした分かりやすい話というものではない。かなり抽象度の高い議論である。カトリックの教義に基づく、神学的議論とその現実思想への適応のようなところであろうか。カトリックが断固として正しく、プロテスタントは間違った理解をして哀れである、という図式の中でしか話は進んで行かず、そのためにあらゆる議論を、哲学でさえ利用していくわけで、またアウグスチヌスも絶対的真理であるかのように取り扱いつつ話を進めていくが、果たしてそれが神学と呼べるのかどうか、怪しいかもしれない。今、「岩下神学」という名の下に、復権が提唱されているらしいのであるが、だとしたら、カトリックのタカ派が表に出て来ようとしているとでもいうのだろうか、と少し訝しく思う。様々な思想が出るのは良いことである。それぞれの自由があるからこそ、言論という場が成立する。ただ、常に自分が正しく、相手を見下しているというような視線は、文章に出てくる。現代も、一部の新聞がそういう態度で押し通して日々輿論を作ろうとコラムを提供しているが、少し似た構造を感じてしまうのは、私がひねくれているせいであろうか。
 しかし、この岩下神学は、広く深い知識の中でなされている。時に、自己の信念で押し通すところは根拠が薄い場合もあり、反対している意見もどちらもどちらではないか、と思うようなことがあるが、カトリックがどういう思考方法をしているのかあまり知らない私にとり、一つ良い勉強となった。
 因みに、巻末の、100頁に渡る注釈と解説、ここが実にいい。案外、こちらを先に見てから、本編に目を通したほうが、より読みやすいのかもしれない。私は後からこちらを見て、少し後悔したのである。




Takapan
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