本

『静まりから生まれるもの』

ホンとの本

『静まりから生まれるもの』
ヘンリ・ナウエン
大田和功一訳
あめんどう
\900+
2004.9.

 カトリック畑の人であったが、プロテスタントからも人望の篤い著者。司祭ではあるが作家として優れ、また知的障害を負った人々のために共に生活をするということもした。すでに1996年に亡くなっているが、そのことばは今も私たちの心を掴み、揺さぶる。
 いや、揺さぶるというよりは、静まらせると言ったほうがよいだろうか。黙想のとき、こうしたことばに沈潜することにより、読者は本来の自分へ、神の与える平和の領域に誘い込まれていくであろう。
 じっと、静かに読む、そのことですでにこのタイトルは達成されているのかもしれないが、読めばより深いところに導かれることを知るだろう。本書は3つの霊想から成っている。それぞれ、思いつきで綴っただけのものではなく、推敲を重ね、ことばの一つひとつに魂をこめるかのように置き、つなげているのが分かる。
 まずは、「静まりから生まれるもの」というタイトルになったもの。そのとき神の声を聞くだろう。また、自分から何かを言いたいという気持ちが収まり、上から与えられることばによって、真実の自分というものが初めて見出されることだろう。逆説めいた表現はちっとも奇を衒ったものではなく、そういう真実を私たちは見落としていた、あるいは、すぐそこにあるのに見ていなかった、見ようともしていなかったということに気づかされる。まことに、霊想とはそういう結果をもたらすものである。
 次は「愛の配慮をもって」だが、ケア(care)という語が、いきなり、よくないニュアンスで使われる語であるという指摘にはっとさせられる。日本人の耳に、ケアというのは大切な手助けであるというふうに聞こえがちである。しかし原語のニュアンスは、「どちらでもよい」というような場合に使う語であり、carefreeとケアから逃れたほうが気楽で適切な生き方のように受け取られているのが現状であるという。ケアは、強い力のある立場の者が下のものに施しているイメージさえ伴うのだそうだ。だがキリストは、そういう立場でありながら、決して上から目線で君臨して恵んだというような方ではなかった。その愛は、上からのものでありながら、限りなく低いところにまで降りて来られたのであった。そういう愛の配慮なしには、救済は無意味であると告げる。ケアなしのキュアは共同体の敵であるというリズムで告げている。神のケアを考えよう。著者は私たちの眼差しを、神の愛に連れて行く。
 ちなみに、配慮という意味の語は、「牧会」と日本語に訳す言葉の中に含まれている。それは「魂の配慮」という意味で綴られた語なのである。
 最後に、「待ち望むこと」で結ばれる。そこに必要な忍耐ということばが、苦しみという意味の語と深い関係があることを指摘した上で、その中に隠された神の約束あるいは摂理といったものへと思いを向けることを勧めている。そうして待つ間、神がいてくださらない、と嘆くことが私たちにあるかもしれないが、そこにこそまさに神がいてくださることを最初に見つけるチャンスがあると慰める。教会で聖餐をくり返していく中に、そのことをつねに心に留めておきたいものだと語っている。
 一つひとつのことばに深い意味がこめられているので、訳者は苦労したようである。だが違和感なく読みやすい訳になっていると感謝する。私たちは、このような優れた訳による霊想を、もっと利用したい。いや、それは不遜な表現か。その恵みに与り、生かされる者とさせて戴きたいと願う。




Takapan
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