本

『戦後日本漢字史』

ホンとの本

『戦後日本漢字史』
阿辻哲次
新潮選書
\1260
2010.11.

 私は、個人的に、旧字体を本で読むことについては、何を覚えない。文献でそうした文字に触れてきたこともその因だが、母親の手紙がまた旧字体に満ちたものでもあったので、いわばまあそういう環境にあったのだ。それでも、近年、人の姓にしか殆ど使われないようなタイプの異体字に触れて、学ぶ驚きを感じることがある。たとえば「穐」や「蛛vなどがそうである。「吉」の上部が、私のは「土」なんですよ、という生徒もいた。事は自分の名前である。自分のアイデンティティである。わずかな違いだと他人が無視するわけにはゆかない。「土」という文字のはずなのだが、ひとつ「丶」が「玉」のような位置に付くということもあった。
 それに最近、改訂常用漢字表のことがしきりに報道されていて、「しんにょう」の点がひとつか二つか、などという論争が行われていたから、漢字を定めるというのは大変な仕事なのだというふうには思っていた。
 しかし、人は、自分が習い覚えたことから、なかなか離れることができない。つまり、今の日本人の多くは、「当用漢字表」で学んでいるという事実がある。もちろん、お年寄りも多いから、それ以前の方々も少なくないのだが、壮年以下、社会を動かしている大人たちは、概して、当用漢字表の世代なのである。この本の著者もそうである。だから、それが当然の漢字なのだ、と信じていたところで、仕方ないものではあるだろう。
 だが、調べてみると、とんでもない事態が分かってくる。この本は、それを暴いている。丁寧に、事が決められていった実情が、あからさまにされていく。ここでそのすべてを紹介することなどはできないが、大まかに言うと、時の担当者の好みや思いつきで、いわば場当たり的に、ひどく言えば気ままに、漢字が制定されてしまっていたのだ。
 戦後、占領政策のひとつとして、欧米人には漢字が分からないから、漢字を全廃して、ローマ字表記にしてしまえという方針があった。日本人の中にも、それに同調する者が少なくなかった。それで、当時は、漢字をなくすべきか、という姿を頭に置きながら、とにかく漢字を減らせという方向性が少なくともあったことになる。漢字がいかに不合理で教育を困難にしているかを証明するために、識字率のようなものを調べたこともあるという。ところが、アメリカの意に反して、日本人は漢字を使う能力が、アメリカなど先進国以上に優れていた。それで、占領の一環として漢字を廃止する勢いは止まったが、それにしても、旧字体から新字体への変更がどうなされるかを含め、より簡素な漢字の使用法を狙い、使う漢字の数を減らそうという動きは加速される一方だった。そのために、いわば不条理な漢字の書き換えがなされ、漢字本来の意味や由来を無視した、ただの記号としての役割だけ果たせばよいとでもいうかのように、国語が密室で決定されていったのである。そこで形をなした当用漢字表は、法律から一般の使用までその範囲内ですべきだというような、半ば強制的な意味合いをこめていたのであるが、それが如何に不合理なものであったか、この本はとことん暴いている。
 はじめのほうで、「犬」ではなくなった「臭」のおかしさが挙げられる。たしかに、言われる通りだ。私も、「嗅」との関連で、なんと奇妙なのだろうとは感じていたが、著者のように調べることはしていなかった。たしかに、ここは簡素化を図るという理由で、「犬」が「大」に捏造されてしまったのだ。たった一画、その「丶」を省くことが、どれほどの教育的効果を挙げるのか、実際根拠などにはなっていないはずである。
 現行の漢字が、基本的に『康煕字典』に基づいていることは聞き知っていた。が、もはやそこさえも弁えない、一部の者の奇妙なこだわりや信念が、漢字をすっかり変えてしまっていたのである。しかしまた、歴史をひもとけば、驚くべきことにも出会う。私も、「明」という漢字が、本来左側を「目」と書いたことは、知らなかった。「日と月が一緒だったら明るいだろう」という、小学生向けの説明を、うっかり信じてしまっていたのだ。ところが、古い書体のこの字は、殆どすべて左を「目」にしている。さらに、正字では、左側が別の形をとっており、窓を意味するのだそうである。窓から月明かりが入ってくる様を表しているのだという。
 だからまた、漢字は面白い。
 ところで、このように制度的な失態を暴くだけがこの本の魅力ではない。昨今の、劇的に変化した日本語の事情をきちんと検討している。それは、電子処理である。そして、電子処理ができるようになった現代では、もはや漢字を全廃しようなどという意見が、全く出て来なくなっている。漢字を示すのが困難だという理由が、成り立たなくなったからである。読めればよいのであって、書くには及ばない、という時代がここに来ている、とも言われる。だが、だからまた、「ど忘れ」が増えた、と多くの人は実感している。漢字を書こうとして、出て来ない、と。私は手書きの日記も書いているから、さほど力は落ちていないつもりだが、確かに、ごく稀に、あれ、と思うことがある。しかし、やはり書いていると、そんなに感じない。でも世間でそのように感じるという理由が分からないわけではない。この点について、著者は明確な解答を出している。それは、ど忘れが多くなったのではない、もともと書けないのだ、と。そして、昔はそもそも人は文章を書くということを、あまりしなかったのだ、とも言っている。つまり、今、気楽に文章が書けるので、昔だったら文章など書いて誰かに読んでもらうなど、あまりなかった人が、文章を書く行為を頻繁に行っている。そして、漢字変換をすれば、もし手書きしかなかったとしたら漢字では書かなかったであろう言葉も、漢字で書こうという気持ちが働く。そのつもりで、手書きで書こうとするならば、漢字が書けないのは、当然ではないだろうか、というわけである。私も、その意見に賛同する。すべての人が、同様に文化的になったために、元来能力的に難しかった人もまた、文化的行為をするように仕向けられているような面が、確かにあるだろうと思う。これを、数字だけ捉えて、ど忘れが増えたのはパソコンのせいだ、などと言うのは、わざとでないとしたら、危険な思いこみであるということになるのかもしれない。
 国語の教師も、この本にあることは学んだほうがいい。著者の意見に賛成するかどうかは、また別の問題である。知っておかなければならないことは、やはり知っておかなければならないと思う。無知の故に、妙な説に惑わされ、これからの国語や文化を誤った方向に導くようなことが、ないためにも。私たちには、ひとりひとりに、その責任があるからである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system