本

『「自分」の壁』

ホンとの本

『「自分」の壁』
養老孟司
新潮新書576
\740+
2014.6.

 ベストセラーとして『バカの壁』がある。それから十年以上を経て、このシリーズは淡々と著者の思いを伝えていくようになった。とはいえ、私は申し訳ないがこの「壁」シリーズの本はあまり読んでいない。『死の壁』は手にしているが、深い記憶は失礼ながらない。ただ、そこにあることと今回の内容との中には、重なるものも多分にあるようだ。
 口述していると最後に記されていた。もちろん推敲はするにしても、基本的に語りで作られていく文章だから、ふだんのその人の思考回路がふんだんに出てくることになる。技巧的なことよりも、素直に頭の中にあることが出て行く。口述で著書ができるというのは、誰でもすぐにできるものではないだろう。きっと慣れが必要だろう。しかしたぶん、ひとたび慣れると、書く労力から解放されて、のびのびと考えが記録されていくようになるものなのかもしれない。
 とはいえ、話はかなり自由に連想の世界に走っていくことがあるかもしれない。予め自分で構成は考えておいて、またおそらくは要点のプロットなどをしておきつつ話すのであろうから、すべて思いつきのアドリブというわけではないだろうが、やはり一定の技術の中で、しかしまた、本音のようなことがこぼれ、しかも度々こぼれることもある。
 今回、最初のほうで、「自分探し」の虚しさが告げられる。そのあたり、「自分」というものについての、つまり一種の自我論というものが展開され、哲学的な厳密さに基づいているわけではないが、なかなか鋭い着眼点から、興味深い話がずいぶん出ていた。「私」の捉え方について、一考に値する論点があったと思う。
 著者自身の、生物学の観点から、しばらくそのための準備の説明を重ねておいて、さて「私」とはなんぞやという問いかけをもってくるあたりは、説得力がある。
 しかし、このあたりから、話は急激に、日本人論のようなものに入っていく。日本とは何か。日本社会の考え方はどういうことか。ただ、そういうことを分かったように強く論ずる種類の人々については適切な批判をも加えながら、それとは違った、どこか開き直りとも取れるような著者なりの人生観と国家観などを展開する。その内容については直に本書の中で出会って戴きたい。
 何かに特に遠慮するということなく、自分の考えを堂々と述べる。そのようなことのできる立場にある著者がある意味で羨ましいと思う方は多いことだろう。軋轢や非難を恐れずに思想を発言できるという立場は、そうそうあるものではない。年齢的なこともあるかもしれないが、ネットで考えを出すということはしないと言っているが、これだけ紙書籍で出せるという恵まれた立場にあるからには、ネットなどは必要ないのかもしれない。
 ネットには距離を置いているのも仕方ないことだろうが、情報を追い続けていては生産的なことができない、と漏らすあたりは、確かにその通りだ。と同時に、それは人に惑わされず自分の信念を語ることができる立場であることと無関係ではないように思う。
 あまりがちっとした形で論が展開されているようなタイプの文章ではないだけに、おそらく読みやすいと言えるだろうし、話して分かりやすいようにという表現が基本であるから、ゆったりと情報を出してくる、すなわち情報量が多いという本ではないことになるが、それもまた分かりやすさというものの性格となるだろう。しかし、いつの間にかその話しぶりにまるめこまれていくという事態にも陥りやすいだろう。皮肉なことに、著者自身、そのようなまるめこまれる構図に警戒をもつべきだと中で語っているだけに、著者自身のその意見にも読者が安易に同意しないように、というメタ的な読み方をしていく必要があるのではないか。
 すると、著者の提案に安易に同調しないようにしたことになるのか、著者の提案を利用したことになるのか、ここもまた、メタ的に興味のあるところだ。
 結局、「自分」ということについて考えるというのは、このようなメタ的な思考に入っていくことになるのは確かだ。これは哲学のたいへんな議論の一部である。そうそう簡単に片がつくような問題ではない。
 流行している「自分探し」ということについても、じゃあその「自分探し」をしているその人は誰なんだい、というシニカルな著者の問いかけは、考えようとすればどこまでも無限遡及になる自我論の宿命でもあり、またそれを傍から見ている私たちの「自分」についても、注意して取り扱いたいものだと思う。
 途中でだいぶ政治的な話に流れていった後、最後にこの本はまた「自分」に戻る。かと思えばまた歴史や政治に触れるなどして、また「自分」に落ち着いて終わる。ただ、このあたり、論の展開や語る世界というもののつながりがよろしくない。無理やり結末をもってきたような気もする。
 このようにして、楽しながら、また気をつけながら、味わうようにすればよいと思う。著者の考えの通りに賛同しなくてもよいが、著者の言おうとしていることについて自分なりに哲学してみたらどうだろうか、と私は思った。




Takapan
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