本

『牧師の責任 信徒の責任』

ホンとの本

『牧師の責任 信徒の責任』
野田秀
いのちのことば社
\1680
2008.12.

 教会の機関誌に寄せられた文書を集めたもの。執筆当時、耐震建築偽装問題が日本に渦巻いていた。そこに見られた責任のなさということが、一つの背景になっているかとも思われる。その後本としてまとめられた時期には、社会保険庁のデータ改竄問題が浮かび上がっていたようだ。扱われている題材はその時その時代の問題を背負っているけれども、要は常々同様の根っこからくる問題や事件が起こっているということだ。
 そのキーワードが、ここでいう「責任」である。
 これを、世の中をぶった切るようなやり方ではなしに、教会の中での徳目として、また必要な観点として取り上げて、掘り下げ、また実際的な扱い方を考察した、バランスのよい本である。ただ、そこには方法論のような実践的な手法が記されているわけではなく、あくまでも精神的な、あるいは教会的に言うならば霊的なレベルでの話である。従って、教会関係者以外が手に取ることはないだろうと思われる。逆に、教会関係者は、手にして考察する価値ある内容だともいうことである。
 ベテランの牧師である。長い牧会生活を送っている。好感がもてるのは、自分の失敗や欠点を表に出していることだ。通り一遍の社交辞令ではない。自分の中の愚かな部分をも提示する。大上段から偉そうに語るのではないということだ。
 日本人の責任の取り方は、ひとつには、集団と個人との関係の中に置かれる。集団の責任であるべきところを、個人で済ませるということであり、集団を活かすために個人が犠牲になる方向性である。切腹は、自分の腹の中に黒いものはないということを見せようという、唯一最後の手段となるのだが、それもしばしば集団を守るためとなる。生物なる有機体は、そうしたことで全体の生命を守ろうとする。体の一部を捨てても全体が生きるようにするのだ。それは聖書の中にも、キリストのからだの概念の中にないわけではないように感じる。
 しかし、聖書の言語をつくった中東から西欧の文化においては、これは応答を示す。そこに他者が関わり、他者との生きた、人格的な交わりの中でこそ、関係性がはたらき、つまりは神に対して応答するところに、責任概念が発生するという構造がある。教会に属する一人一人は、教会という有機体の一部であるとともに、一人一人が神との応答の中に生かされている。この信徒と神との仲介者としての神父とはまた違い、いわばたんに群れの一代表に過ぎない牧師たる者には、独特の責任が発生すると思われる。そして、牧師をこそ神との間に置くということではなく、しかも牧師を中心として教会という共同体を互いに形成する信徒たちからすれば、その教会に対する責任、引いては神の前に立つひとりの魂としての責任を自覚するということは、必要であり、重要であるはずである。
 このように応答するということは、神に呼び出されているという前提により成り立つ事柄である。この呼び出しが、言語的には西欧語の「職業」にもなる。従って職業の中で責任が問われるのは当然なのである。
 などと、理屈っぽいことがこの本には書いてあるわけではない。教会生活を送る者にとっては、たとえ一見抽象的な説明のようであっても、思い当たることの多い、かなり実際的な事柄に直接関わることが並んでいると言ってよい。しかもひとつひとつの項目は短く、歯切れ良く書かれているので、いつどこから読んでも参考にできる内容だと思う。しかも、適度に聖書の教えを根拠として挙げるので、何も著者個人の感想というよりは、聖書が何を言っているか、という角度から照らしている光を覚える。
 本の後半は、この責任を隠れたモチーフにしながらも、それに囚われない形で、ショートメッセージが集められている。つい読み過ごしていくばかりになりそうであるが、事ある毎にここを縦横に開き、教会内部での解決すべき問題と照合してみると、解決の糸口が与えられそうな気がする。いや、極めて個人的な問題も、多くが光を受けることになるだろう。その意味では、一度読んで終わりとするにはもったいない本であり、ぱらぱらとでも構わないので、時折開いてみると、ヒントになることが多いのではないかと感じる。
 それほどに、何をしようと何を考えようと、責任という概念は、私たちについてまわっているのである。




Takapan
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