本

『世界史における時間』

ホンとの本

『世界史における時間』
佐藤正幸
山川出版社
\765
2009.8.

 これは歴史の本であって、信仰の本ではない。だが、全体から、キリスト教の大きな影響を感じさせる何かが漂ってくる。とはいえ、そういう考えとは関係なく読んで楽しめるのも事実である。
 私も実は不思議に思っていた。というよりも、確実に奇妙でおかしいことなのだ。
 鳴くよウグイス平安京、平安遷都は794年です。社会の教師はそう教える。私も塾で教える。それがテストに出る。だが、間違いなく、平安京の人は誰ひとり、その時を「794年」だとは認識していない。西暦に換算したのは後の後、私たちの時代になってからである。せいぜい百年程度の経験から、それを794年と読んで憚らない。しかしこれでは、歴史の文献を読むことはできない。歴史文献にあるのは年号であって、西暦ではないからだ。果たしてこれでよいのだろうか。
 西暦だと、世界の歴史そして日本史内でも様々な比較や対照が可能になる。通年のメリットは、歴史を広く見るときには確かに有用だ。それは分かる。だが、それは極めて意図的な、私たちの魂胆なのであって、歴史の事実として「ああ、794年の今年平安京が始まった」などと考えた人は、歴史上ひとりも存在しないのである。
 誰もが当然として何の疑問も呈することなく行っているこの4桁の年代の前提を、あらためて問いかけ、起源を探り、それが使われる理由を示してくれたのが、この薄いブックレット的な本である。だからこの薄さに関係なく、厚みのある壮大なものを含んだ本だと私は思う。
 また、日本で「西暦」というのも実に手の込んだ、そしてうまいやり方であったということをも著者は指摘する。それは、宗教色を一掃したということである。キリスト紀元というこの宗教的な意味合いの強い数字を、全くそれなしで利用した日本人の方法は、非キリスト教の他国もしばしば行った方法ではあるのだが、実にすぐれた方法であったことが、この本により明らかにされている。中国では今でも、どうしてこの数字が決まっているのか、ほとんど知られていないとも書かれている。
 だが、世界各国の新聞の表記を比較するなどという、単純でありながらあまり誰もしていないようなことをして見せて、著者は世界全体でこのいわゆる西暦は使用されているのが現状だと指摘する。つまりは、このキリスト紀元は、宗教的な意味は隠されていたりあるいは意識されていなかったりしながらも、今や全世界で使用されている共通の数字なのであることを明らかにする。
 では何故キリスト紀元が現代社会をこのように支配することができたのか。それは、それが最も優れていたからではない、と著者は考える。柔軟だったからだ、と考えている。歴史の最初を1とするならば、どこを1とするかが問題である。現在を0として常に遡るのは、コンピュータ社会では用意な換算ではあるが、実のところ毎年数字が変わるというのは煩瑣である。こうした問題を逐一検討しながら、著者はキリスト紀元の優れているところ、また改善すべきところなどをひとつひとつ理由をつけて示している。
 思想や趣味に左右されず、こうしたありのままの性質と事実とを適切に呈示していくということは、学問の上で非常に大切な営みである。はじめから結論ありきで偏った考えをごり押しするようなあり方が多い中で、この本が読後もさわやかな印象を与えるのは、その態度を徹底させているからではないかとも思われる。
 常に史料を示しながらこうした歩みを私たちに見せてくれるこの本は、なかなか優れている。「世界史リブレット」と題するシリーズの128がこれである。そのほとんどが、狭いテーマで深めてあるのに対して、この一冊は実に壮大なスケールで時間のすべてを物語っている。




Takapan
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