本

『聖書伝説物語』

ホンとの本

『聖書伝説物語』
ピーター・ディキンスン
マイケル・フォアマン挿画
山本史郎訳
原書房
\1890
2003.9.

 小説仕立てであるが、挿話が33に分けて収められており、それぞれ視点が異なる。たとえば最初の創世については、バビロン捕囚に遭ったイスラエル人がバビロンにおける宴において話した内容、という扱いで語られている。続くカインとアベルの物語は、士師記の時代に遊牧民が家畜取引市場で話すということになっている。それぞれの舞台が面白い。中東を背景に、紀元前の様々な時代の中で、イスラエルの物語を語ってくれるという設定であり、変化に富んでいる。この視点そのものが、すでにユニークである。様々な語り手によることで、聖書のエピソードが、実のところそれぞれに人のドラマでもあり、捉え方が異なるという当たり前のことに気づかせてくれる。たしかに聖書は神の語ること、という信仰であってよいのだが、それを研究者がしたり顔で神の意志はどうのこうのと一定の口調で語り続けると、それなりに一貫した筋の中で理解はできるのであろうが、語られている人物たちの生き生きとした受け止め方や心の動きが、ともすれば忘れ去られてしまい、ただ神が人という駒を使って将棋を指しているかのようにすら感じられてしまうかもしれない。そうではない。一人一人が、読者である私のように、生きる現場で神に問いかけ、また不安を覚え、喜びを与えられつつ、時間の中で自分の生を歩んでいる。この臨場感のようなものが、聖書物語一般にはえてしてないのである。この現代イギリスを代表する作家の一人である著者が、そこに息吹を与えてくれたと言ってもよい、そういう作品である。
 サブタイトルは「楽園追放から黄金の都(エルサレム)陥落まで」となっている。これは原題の「黄金の都」をとっているものであろう。物語の語り手はそれぞれいろいろな時代の中に置かれているが、語られる聖書の物語としては、創世からエルサレム陥落までの物語となっている。旧約聖書はたしかに、それがほとんどである。後、エズラやネヘミヤの時代に復興がなされたというだけで旧約聖書はすべて終わる。著者はそこは語らなかった。また、この中にはソロモンのエピソードが皆無といってよいほどであり、イスラエルの栄光の中心に輝く繁栄の王が不在となっているのも、どこかイスラエルというものをどう捉えるか、明らかにしているようにも見える。著者は、イスラエルの中に大成功を見てそれでよしとはしないのである。黄金は、言うなればまだ先にとっておかれるものなのかもしれない。
 ただ、著者は素朴な信仰の故にこれを書いたのではないと思われる。というのは、物語を読んでいて分かることだが、たんに文学的に優れているというばかりでなく、ここには実によく最近の聖書研究が盛り込まれており、反映されているのである。たんにイメージやインスピレーションで書かれているのではない。いうなれば、聖書の研究成果を伝えるために、エピソード的に知らせているような感じである。粗野な語り手がくだをまくように話しているその内容が、聖書についての学問的成果を実に巧妙に反映したセリフとなっていることが度々あるのである。従って、この本は文学的にというよりも、もしかすると聖書研究に大いに参考になるものなのかもしれない。
 そのことは、巻末の、著者自身による解説を見るとはっきり分かる。33の物語すべてについて、著者のコメントや註釈が入れられている。いわばここに、種明かしがなされているのである。実によく勉強しているが故の創作であるということがはっきりする。
 その姿勢は、聖書に対して一部批判的な眼差しもある。著者がどういう主義の立場であるかなどということを私は知らないが、聖書を一文献として冷徹に見つめている様子は窺える。つまり護教的雰囲気はない。しかし、神の存在に対して批判的であるとか、信仰が無意味であるとか、そういう意図は感じられない。人類に与えられた壮大な知恵として、しかし研究で明らかになってきたことについてははっきりと理解し、それを踏まえて描こうとしている。逆に言えば、それほどに冷めた目で見てもなお、聖書は神の不思議な意図に満たされて導かれてきた書物なのだ。これだけの物語を人の手だけで生み出すということは不可能だと言えるのだ。
 著者はその最初の語り手のように、バビロン捕囚のときに旧約聖書が大きく進展したことを認めている。だがまた、古い伝承が存在することも当然のこととして考えている。捕囚の民がたんに創作した物語ではないのである。その理解は、あまりにも一定の聖書研究に依存しているかのように見えることもあるが、それはそれ、近年の研究結果であるとして、そこから眺めてももちろん悪いことはない。これはひとつの成果である。ただ、それはすべてではない。古来の解釈と違うといった事情とはまた別に、近年の理解からしても、まだ決してそれとは限らないという面も、当然あることだろう。果たしてJやE、Pという史料が実在したのか、創世記を語る場合の一昔前の定説がそのままこれからも通用するのか、そんなことからも、この1927年生まれの著者の学んだ神学というものが影響している面も、たしかにあるだろう。だが、そういうことはともかくとして、語り手の生き生きとした姿を示すこのような試みが、価値を減ずると言われる必要はない。これは学問ではないのである。ただ、ある立場の学問に裏打ちされたものであるから、これを聖書だと思いこんではならない。それでも、聖書にはこうして語った「ひと」の温もりのようなものが元来あったのだという、極めて当たり前の事柄にも、改めて気づかせてもらえたら、また私たちがひとりひとり聖書に向かうときに、役立てたらよいのではないかとも思う。
 刺激を受けるによい観劇であった、とも言えるだろう。




Takapan
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