本

『学校のモンスター』

ホンとの本

『学校のモンスター』
諏訪哲二
中公新書ラクレ258
\798
2007.10

 学校に文句を言う親が増えている――その辺りから入る本文で、安心していることはできなかった。さすが、「プロ教師の会」代表である。大変なことへと展開していった。
 そもそも、「若い人たちへ」と題された冒頭の文章、まえがきに相当する部分が、違っていた。これ自身、国語の入試問題に使いたいほどの内容、などと言うと著者に叱られるだろうか。それほど、若者に首根っこを捕まえてでも読ませたいと思ったのだ。
 そして、読み進むうちに、この教師のプロとしてのあり方に、驚きと尊敬の思いを抱かざるをえなくなっていった。
 世代的なこともあろうが、思想書に十分浸っている人の書く文章である。
 だから、途中で何を言っているのか、分からなくなることがある。ある種の時代背景もあるし、思想背景もある。また、思想的な用語が簡単に飛び交うところで、読み慣れていないと基本的な言い回しすら、理解しづらいところが出てくる。
 などと書くと、だから時代が情けなくなっていくのだ、などとお叱りを受けるかもしれない。でも、たぶん、真意はなかなか伝わらないタイプであるかもしれない。
 単にバカ親のことを面白がって書いているのではないし、今の子どもは変わった、などと嘯いて澄ましているわけでもない。著者は、長年の経験から、人間の現実存在のあり方について、その立場や精神構造などを、基底から問い直そうとしているのである。
 私は個人的に、個の確立のできていない、いや価値判断はやめておこうか、個の確立のないこの国、あるいはこの時代の中で、罪の問題にまで立ち入った最後の部分は、クリスチャンとして注目せざるをえなかったし、これはこの時代にこの国でいわゆる伝道をしようというクリスチャンが知らないでは済まされない分析であると強く感じた。
 それは、多くの教会やクリスチャンが、すでに自分の罪と向き合った上で、キリスト教を伝えようとする場合に起こる。それは、高いところから教えを授ける、という意味では決してないのだが、教師が生徒に伝えようと問いかけても、その問いそのものが生徒にとって無意味であるという状況と少し似ている。つまり、いくら、それは罪だろうなどという気持ちで何かの話をしても、そんなことはさらさら考えないのが、普通の人々の姿である、ということだ。罪どころか、「個」という捉え方そのものが、聖書の世界とは無縁のものとして備わっている、というふうに、著者の説明を解釈することが、クリスチャンには許されることだろうと思う。一般の日本人は、どうしてそんなことを考えなければならないのか、というふうに、クリスチャンの思考法そのものを、とんでもない変なこだわりだとしか見ていないのである。
 まことに、聖霊によらなければ、神の国のことが理解できないというのは、本当である。理屈では、どうしようもないのである。
 そのことに気づかないで、ただ伝道、伝道と聖書の言葉を突きつけても、何にもならない。それよりは、せめて、自分の心の中にはこのようにしか考えない部分があるのだ、と、この本の著者のように、自覚を少しでも促すような方向で問いかけるようにするならば、自分の心の中についての、まともな関心を呼び、「個」という自分のあり方について何か考え始める機会となるかもしれない。罪とか救いとかいう話は、それの次の話である。
 先に救われた私たちは、霊の導きにより、この罪や救いということが魂に割り込んで入ってきた者なのであり、どこかその「個」というあり方を経験していたということが、後から自覚されていったような者であるのかもしれない。




Takapan
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