本

『ろう者のトリセツ 聴者のトリセツ』

ホンとの本

『ろう者のトリセツ 聴者のトリセツ』
関西手話カレッジ編・著/星湖舎/\1260/2009.11

 手話で歌を歌おう、というのは、子どもに対しては一つよい効果がある。また、本による手話の学びというのに、意味がないはずがない。だが、英語を、ただ英語の参考書だけを読んで学び始めた人が、果たしてどこまで英語を使えるかというと、そもそも発音からして、無理ではないかと思われる。せめて、英語は録音したものを聞くといったものがまず必要であろう。その上、ネイティブとのやりとりの中でこそ、得られるものが数多いのではないだろうか。
 いわば、手話のネイティブとの交流があれば、手話の習得は決して困難ではない。しかし、友だちになればなおさらのこと、勘違いに対して指摘できないという場合があるかもしれないし(実のところろう者は、聴者の感覚でいう「ずけずけいう」ことがノーマルであり、けっこうはっきり言ってくれることが多い。ただしこれも個人差がある)、伝えたい事柄についてズレがあるままに誤解して過ごしている、という場合があるかもしれない。
 通じていなかった、誤解していた、というのは、気がつきにくいことでもあるし、その誤解をとりまとめる作業をするというのも、なかなか大変である。関西で活動が始まったこのグループでは、日常生じた誤解を徹底的に追究した。それはどこが違うのか。感覚がどう違うのか。まさに、英語でこういう表現は日本語でそう訳したらオーケーというものではない、というような世界である。微妙なニュアンスの違いがあるし、対応する日本語とは指している内容が違うこともある。手話も同じである。
 1頁か2頁単位で、ろう者と聴者とのやり取りの中に、その違いがよく表れるように、分かりやすく面白くまとめてある本である。実に見易い。もちろんそれは「日本語」で記してある。手話でその「日本語」に見える動きをした、という意味である。互いにその言葉で表現したつもりであるという事態を示している。だのに、互いに理解するところが違うというケースが、示されているのである。
 たとえば、聴者が「やっとできたよ」と、やれやれ疲れたといった表情で伝える。するとろう者は不思議に思う。「やっとできたのに、どうして喜んでいないの?」
 日本語にすると「やっと」という手話がある。しかしこれは、イメージがろう者と聴者とでだいぶ違う。聴者は、どちらかというとマイナスのイメージで使う語である。「あいつがやっと来た」というのは、遅いじゃないか、という意味である。ところがろう者では、プラスのイメージである。「あいつが来てくれて助かった」という感覚で使う。額の汗を拭って下へ落とすような動きで表すこの「やっと」は、「よかった」という感覚で用いられる手話なのである。だから少し時間に遅れた聴者が、ろう者から「やっと来たね」と伝えられて、嫌味を言っているのか、などと誤解するのであるが、そうではない。これは歓迎されているのである。
 この本は、NHKの、日曜日の「みんなの手話」に続く番組の中で紹介されたことがある。私はそれを見て、これは大切なことだと思い、本を探して購入した。こんなふうだから、手話関係の本がけっこう溜まってきた。でも、本を読んで満足するのではなく、いろいろそれを教会で、ろう者に尋ねて確認してみることにしている。すると、改めて「なるほど」と言ってくれることもあるし、「そうなんですよ」と常々思っているように言ってくれることもある。
 この本のサブタイトルは「ろう者と聴者の言葉のズレ」とある。そう、これは「言葉」の問題である。情報としてばかりでなく、心を伝え合うはずの言葉が、実のところズレを生み出している。バベルの塔の物語は、たんに言語がいろいろ生まれたということばかりでなく、言葉がズレていく、人間の自己本位制を何よりもよく表しているのではないか、とも思えるようになってきた。
 薄い本だが、手話を使う人にとり、得るところの多い一冊だと思う。




Takapan
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