本

『ろうあ者 手話 手話通訳』

ホンとの本

『ろうあ者 手話 手話通訳』
松本晶行
文理閣
\1785
1997.8

 少しばかり旧い本なのだが、図書館にある数少ない、ろうあ者関係の本である。
 かといって、手話入門でもないし、楽しいエピソードというわけでもない。著者は弁護士。おそらく有名であるとすれば、ろうあ者の運転免許に関する訴訟の弁護団だったということであろうかと思う。
 弁護士の著者自身、ろうあ者である。失聴は8歳だという。だから、生まれつきというわけではないが、学校についてはいろいろ苦労したようだ。1939年生まれである。口話法が強いられていた時代であり、また法的にも、ろうあ者に人権が認められていない面が多かったことだろう。
 喩えは悪いかもしれないが、今の若い人が、韓国の文化に夢中であるとき、過去においてどういう暗い関係があったかということを、知らないでいる場合があるとする。私たちが今、手話の中にどこかカッコイイとか、手話は楽しいとかいう気持ちで見ているとするならば、それと同じように、過去のことを知らずしてやっているという懸念をしたほうがよいかもしれない。さらに、今たとえ手話を肯定的に私たちが見ているにしても、ろうあ者その人を理解しようとしてやっているかどうか、分からない。英語が話せるのはカッコイイとしても、英米文化を尊重しないというのがそういうことである。英語が通じる自分がカッコイイかと勘違いしているだけであって、クリスマスもイースターもその意味を知ろうとしないとあれば、少なくともそれは自己顕示欲のための道具として、他の文化を利用しようとしているだけだと言われても仕方があるまい。
 話がずれた。この本、そういう意味では、今の時代からすれば考えが及ばないような、かつての常識を眼前にもたらすものである。それで逆に新鮮に驚くことがある。そういう苦労をしらずして、手話をやろうとしていたのか、と恥じ入るほどである。しかも、考えてみれば至極当たり前のことである、とも思えることがある。ろうあ者もまた、離婚問題で法的に争うことがあるのだ。土地の証書で被害に遭ったら、どうやって裁判を受けるのか、そしてそのとき、手話通訳者を頼もうとするときに信じられないような問題が立ち上がることなど、そんな困難もあったのか、と恐れ入る次第である。
 人権など認められていなかった、つい少し前のその時代、この本にはとてつもないことが平然となされていたことが紹介されている。法的にという以前に、人間としてどうかとさえ思われることなのだが、それが、「かわいそうだ」という押しつけの善意により、当たり前のこととして行われていたという事実に、愕然とする。
 話の内容は固いのであるが、途中から実際の裁判の事例が紹介され、目が開かれるような思いがする。いくら名前を出さないからと言って、ここまでプライベートなところが本で公開されてよいのかどうか、心配すらするほどであるが、弁護士である著者のこと、その辺りは当然クリアしているのであろう。こうした事実を知ることで、読者はいっそうろうあ者の現実を知るのではないだろうか。
 苦言を申し上げる。冒頭に、著者の個人的な先生や友人のことが詳しく書かれている。それはそれで面白いのであるが、一般読者にとり、こういう個人的な関係事項は、入っていきにくいものである。著者の生い立ちならばそれでよいのだ。どういう人なのだろうという興味を、読者は当然もっているのだから。しかし、まるで著者が個人的に、お世話になった人に礼儀を尽くすためにやはり最初に掲げなければ、というような気持ちで長々とお世話になった人のことをいろいろ書かれても、一般読者にとっては、分からない世界であるし、分かったところでだからどうなのか、と思ってしまう部分である。著者がどういう人であるのか、分かる以前に、あの人にお世話になった、この人に、と書かれても、戸惑うのである。気短な人は、この本は分からん、とそこで読むのをやめてしまうかもしれない。
 途中に、興味深いことがいろいろ書いてあり、最後の手話通訳のことは今もまた決して解決はしていないような事柄を分かりやすく描いている。これはたぶん編集上の問題であろうと思う。季刊誌に連載されていたものの編集であるから、単行本としての構成をもう少し配慮してあると、読みやすかったのに、と思う。




Takapan
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