本

『聖書が教える「霊の戦い」』

ホンとの本

『聖書が教える「霊の戦い」』
内田和彦
いのちのことば社
\2000
1994.11

 教会の図書なので、古い発行であり、現在入手できるかどうかも分からないこと、また価格も当時と違っている可能性があることを、ご容赦ください。
 一時、霊の大きな運動が話題になったことがあった。聖霊の働きで、幸福を願いこの世で成功することを祝福として掲げ、いくつかの教団や教会が大きくなるという様子を見た時代があった。
 それらの働きに驚きつつも、果たしてそれは信頼できるのだろうか、という思いを抱いた人も少なくなかった。異言がそれほど必要なのか。両手を挙げて踊るように礼拝しなければ恵まれないというのか。はたまた、そのように激しい霊的な興奮を示すことがなければ、神に救われたことにならないなどとでも言うのか。
 こうした排除が望ましいものでないことは、一目瞭然であった。しかし、それらの運動を警戒するにしても、あるいはまた根拠づけるにしても、必要なのは、やはり聖書だった。それも、聖書の句を都合のよいように切り取ってくるのではなくて、聖書が神からの言葉であるという信頼を基に、聖書からその考え方が発しているのかどうか、点検する仕事が必要だったのだと言えよう。
 しかも、聖書には、裏腹のように見えることもある。一面の真理を拡大していくと、別の真理と背反するということもありうる。しょせん全体が見えない人間の浅はかさである。それで、自分の味方が正しい、と言い張るならば、象を撫でた盲人の話のように、自分の感覚を全体に適用してしまう誤りに陥ってしまう。
 この本は、発刊当時の関心事にスタートしているとも言える。「霊の戦い」や「力の伝道」といった合い言葉について問い直すことから本を始める。そして、それらに関して聖書は何と言っているか、様々な角度から検証していこうとしている。
 全体的に、適切なバランスのもとに調べられているという印象を受けた。極端にそれらを無条件で支持するとも言わないし、逆にすべて拒否するとも言わない。悪魔あるいはサタンの力がどのように人間に及ぶかということについて、聖書を根拠に調べようとする。
 結局、その「バランス」に尽きることが、終章において分かってくる。極端に言えば、この終章だけを読めば、著者の見解の要点がはっきり分かるというものである。そして、日本の教会がここからどの方向に進むとよいのか、未来へ眼差しを向けようとしている。そのとき著者は、どちらかと言えば、この聖霊運動には疑問を投げかけている、ということが分かる。悔い改めに基づく救い、そして聖書の言葉への熱心さが求められているのだとがはっきりしてくる。しかも、たんに激しい運動を肯定否定どうするのだ、というわけではなく、大切な救いというものがどうやってもたらされ、私たちが地上で神の僕としての歩みを続けるためには何に注意を向ける必要があるのか、そんなことを重んじようとしているかのようである。
 自分の教会の立場や、その牧師の考え方などに影響されることもある。むやみにそれらを唯一の神の言葉だと思い込む必要もないし、逆にそんなもの信用がおけないなどと自分の感覚を神とすることもよろしくない。終章に見える「バランス」の言葉が、やはり大きな意味をもつと読むべきだろう。
 とにかく、サタンの仕掛けについて、聖書を縦横に開き引用してくる、その手さばきに見とれるだけでも、この本を読む価値がある。その上、最終的には信仰者である読者自身が、自分の生き方について考えてゆけばよいのである。できれば、神からの言葉を待つために、祈りという道を設けた上で。




Takapan
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