本

『ただ信ぜよ: 〜教会が生きる唯一の道〜 』

ホンとの本

『ただ信ぜよ: 〜教会が生きる唯一の道〜 』
齋藤真行
kindle
\355
2014.12.

 いよいよ三部作の第三部である。力が入っているのはいいが、焦点が分かりづらくなっているかもしれない。テーマは信仰であるが、信仰と行いのような関係から、教会の将来につながる伝道へ関連し、おそらく最初の著作に戻る、という理解でよいのではないかと思われる。
 教会の存続は、礼拝という形に集約されるのではあるが、そこには信仰が必要である。心の条件として、信仰だけが、教会を建てていくのだという。
 しかし、この「信仰」というものは、おいそれと説明ができるものではない。信仰とは何か。この問いに対して、明解な定義を、私も聴いたことがない。様々な側面から、信仰について語ることはできるのだが、一言での定義で済むものだとは、とても思えないのである。
 そのため著者もまた、信仰を、前回の手法と同様に、否定的な述語によって語ろうとする。信仰は、感情・理性・意志ではないのだ、と。
 そして、信仰をできるだけ短く指摘するならば、それを「関係」という名の下に呼ぶことを試みる。神との関係に、信仰の本筋がある。神の言葉を聞き、神に祈るという対話の中にそれを見出すとなると、これがそのまま礼拝となっていくことは明らかであろう。
 こうして、礼拝を通して善への眼差しが育まれ、愛の人格が形成されていく。この関係の中に置かれたときに、現実を見る眼差し、世界の捉え方が変わってくるという。これを「ラベルの貼り替え」という言葉で著者は呼んでいるが、同じ出来事の観察が、そこに愛が見え、神の恵みであるという意味において見られるようになる。それは、信仰が働いているからである。
 そして、その貼り替えを起こす原動力が、礼拝の説教であるという。牧師としての立場から、自戒を込めて語っているのだと思う。だが、牧師という立場からでなければ、なかなか思い切ってこのような言い方もしづらいものであろう。教会の衰退は説教に起因する、というのである。
 関連して、その恵みのことばが福音であること、そこに律法の成就がなされること、祝福への結びつきなどを語りつつ、信仰とはどういうことか、聖書から拾い上げて確認しつつ、信仰の対象を定かにするべきであると伝えている。こうして、聖書から実践へのつながりを重視する必要があることを著者は継げ、タイトルに掲げた事柄を確認しようとしている。
 中でも目を惹いたのは、聖書は明確に「因果応報」を語っている、というあたりでしょうか。これは仏教用語でもあることから、本来細かな定義のし直しや、概念を把握するための一連の説明がないといけないのであろうが、それは本書からは伝わってこない。自分の責任という問題を考えるとき、この用語を使っているのであるが、わざわざこの語を使う必要がどれほどあったのか、私は疑問である。確かに、こうして私の心にとまったという意味では、この用語を使ったことは成功である。だが、仏教的な背景を無視してわざわざ使うというのは、リスクが大きい。例えば、安易に「他力本願」という語を使うことは、元に慎まなければならない。それは、浄土真宗の真髄に関わる語である。それは、十字架のアクセサリーをいかがわしいものを示すのに使うよりも、さらに不適切なことである。自己責任ということが言いたいのであれば、そちらの方面で語を絞ればよかったのであって、わざわざ用いるべきものではなかった。大学入試に「狭き門」という語を用いることなど、私は明確に不適切であることをアピールすべきであると思うが、同様の不快な使用法はすべきでないし、また誤解を生じさせる原因となる。
 それはともかくとして、私たちに責任領域があるという指摘は、それが律法的な理解になってしまうと困るのではあるが、信仰の実践を促しているのは、牧師としては切実な問題であろう。できるなら、牧師には説教に専念してもらう、というのが理想なのである。他方、牧師だろうが信徒一般だろうが、それぞれが働き、それぞれが祈るという点も、必要な指摘となるであろう。ともすれば信徒がお客さんのようになりがちである、という点を言いたいのであれば、それはそれで言い方はいろいろあるだろうと思った。




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