本

『重い障害を生きるということ』

ホンとの本

『重い障害を生きるということ』
谷清
岩波新書1335
\735
2011.10.

 タイトルもだが内容も十分に重い。重症心身障害児施設に勤務する医者が、いわば彼らの意見を代弁する。
 動けない。意識もあるのかないのか分からない場合もある。あっても何か叫んで怯えるようにするばかり。「かわいそう」だと人は言う。しかし、それは同情やあわれみとはまた違うものであることが判明してくるのだという。つまり、生かされているなんてかわいそうに、というわけである。
 彼らは何のために生きているのか、と人は見る。それに尤もらしい答えを出してみても、はたして彼らが同じように思っているのか、その確証もない。そんな中で、医療行為を続ける著者は、あたかも自分自身に問いかけるかのように、生きるとは何か、生きる喜び、生き甲斐とは何か、考えようとする。
 理論や理想を述べるためのものではない。一定の主張をするために書いているわけてもないだろう。重い障害を抱えて生きる人々と共に自分も生きてきた、その歩みを明らかにしようとする。また、同じように生きてきた先人たちの足跡を示そうとする。
 それを私がとやかく説明するようなことはできないと思う。ぜひお読みになっていただきたいと願う。読者はだんだんと感じるのではないか。はたしてこの自分は幸福なのかどうか、と。生きているという点で、何も違わないように思えてくるのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。私が何か優れているとも思えないし、自由で幸福だとばかりも言えないような気もしてきた。かといって、この障害を背負っている人々のほうがよい、などとも言うつもりはもちろんない。ただ、同胞には違いないのだ。生きていることについて同じなのだ。
 重症心身障害児施設の歴史も示される。小林提樹と島田療育園、草野熊吉と秋津療育園、そして著者のいるびわこ学園は糸賀一雄。この三人に共通する特徴がある。それは洗礼を受けているということだ。神を信じ、その中で彼らを助けるという運動に身を寄せていったのだ。それは並大抵の覚悟ではできない。しかし、突き動かされるように、そこへ身を挺していった。
 こういう気骨のあるクリスチャンが、果たして今どこに見られるだろうか。命をもたらすはたらき、いのちを生きる生涯が、どれほど活動しているだろうか。もちろん私などどうしようもないほどのお荷物のようなものだ。
 生きていることが喜びなのだ、という一つの結論めいたテーゼに、いたく感動する。回復不能として医療行為が無駄だと思われるような一般感情とは違い、医療は人間として互いに当然なすべきことだという認識が、拡がり支配するようでありたい。そもそも人間の社会たるものは、それを当然の公理として動いていくのでなければならないはずだ。何の能率だか差別だか知らないが、彼らはただ少し自分とは生きているスタイルが違うにしても、同じ時代に出会った大切ないのちの持ち主ではないのか。そういう施設で身を粉にして働く人々の上に、上よりの助けがありますように。
 私たちが自分で勝手に常識だと信じていることは、必ずしも常識だとは言えない状態にある。どうふう人がどういう障害の難点に置かれているか、そこにもっと関心を寄せていくのであれば、何かしら助けになることができるかもしれない。たとえば彼らは自分に関係のない音情報を消すことができないので、一般に思われる以上に、音に反応するのだという。言われてみれば単純なこういう現象を、この本から初めて教わるような気がしてきた。そういう視点で読んでいくと、私はよかった。




Takapan
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