本

『追いつめる親』

ホンとの本

『追いつめる親』
おおたとしまさ
毎日新聞出版
\1000+
2015.7.

 「あなたのため」は呪いの言葉――このサブタイトルが、唯一赤く表紙を飾っている。他はモノトーンだ。赤い文字が強烈である。読み手に関心を起こさせるためにも優れたコピーだと思うが、それはたんに宣伝や技術というわけではない。この本が主張している、真実のところそのものなのである。
 教育の評論家というよりは、ジャーナリスト。それでいて、筋の通った意見をもっている著者である。親として、自分の子どもに対する思いも含め、教育全般にわたりさまざま取材の中で考えを深めている様子である。おそらく秀才なのだろう。そこから、勉強が苦手な人の気持ちを推し量るというよりは、親として子にどう思うかの心理の中に潜む残酷なものを明らかにしようという試みであるかのように見える。
 タイトルとサブタイトルで、主張そのものははっきりしている。親が、子どものため、という呪文を唱えるとき、実はそれは自分のためでしかない場合が多く、子どもを圧し潰していくほかないような力となっているかもしれないことに親が気づかなければならないというのだ。
 実のところ、読んでいくとかなり息苦しく感じてくる。自分はそうではないのではないか、と思いたい一人の親としても、自分もまた子どもを苦しめているのだ、というふうに指摘されてくるからだ。また、子どもの立場を精一杯考えても、このような事態と空気の中で、なかなか救いがない点が、気持ちを暗くさせていく。
 具体例はちろん仮名であり、事情を少し変えてプライバシーを考慮しているとはいえ、あまりにも辛いケースが紹介されていく。命を絶つ子どもの例は、親として読むに忍びない。が、そこまで追いつめたのは、おそらく親である。これは、その親を非難しているわけではない。私たち「親」たる者が、すべからくそのようである、つまりは自分の罪を指摘されるような圧迫を、読んでいる最中ずっと受け続けているという意味である。
 えてして、親は自分の失敗を子に託す。自分が叶えられなかった夢を、わが子に実現してほしいと願う。その思いが、当の子どもにとりどうであるか、それが見えない。このくらいのことができないでどうする、という思いで親は対し、子どもの自信を失わせていく。だが子どもはそれをうまく言語化できない。反論もできない。親や教師は、絶大な権力をもって子どもの前にたちはだかっているのだ。しかし、当の親や教師には、その図式が分からない。かつては自分も子どもであったはずなのに、もう分からない。
 断ち切る勇気が必要だという。なんだかんだ言っても、どこがて大英断を下して、自分が変わらなければならないのだ。意識と行動を共に変えていかなければならない。これはもちろん簡単なことではない。だが、しなければ、子どもの命が危ないという。精神的な命という側面も含めて、命が危ないのだ。
 だから、「生きているだけでいい」という思いを、親はもつ必要があるのだという。子が、親とは別の人間であり、別の存在であるということを深く知ったときから、親はおそらく普通に、その感覚を学んでいくものであると私は思っていた。しかし、それがなかなかできない親が多いという風潮が、この本が指摘している危険な現状を生み出しているようにも感じた。
 子どもは自分の所有物ではない。キリスト者は、それがよく分かっている。子どもは神から預かったものである。ある意味で、すべてが自分だけの責任ではないという気楽さも伴う。無責任に放任するわけにもゆかないが、自分だけがすべてを決めると意気込まなくてもよい。神から託され、預かった子どもであり、やがて神に返すものであるという意識がそこにある。わが子を生みたくて泣き崩れたハンナは、息子サムエルを得ると、神に献げ、神殿に仕えるものとした。キリスト者の子育てには、多かれ少なかれ、そのような意識がある。つまり、神から「預かった」という意識は、神から「与った」と別の漢字を当てることで、子育ての根本原理を自覚する。
 そのようなことを考えながら読み進んでいったのだが、この本は悲惨な事例をあげつらうようなことで終わるものではなかった。解決策をひとつ提示している。どう意識を有しても、実際子どもが問題を起こす、子どものことで困ったことになるという場合があるが、そのような時に、親は権威をもって命じるのではなく、「いっしょにオロオロする」とよいのだ、という。この表現は幾度も繰り返されるので、この著者の大きな提案であることは間違いないと思うのだが、「オロオロする」の言葉の中に、共感や、同じ目の高さが感じられると言ってよいだろう。それは、子どもにとり、解決を上から押しつけられるのではなく、共に悩んで生きていくのだ、という安心感をむしろ与えることになるだろう、というのである。聖書でも、「共に」という概念は鍵である。
 なお、「教育虐待」という言葉が新しい言葉として提示されている。著者の造語ではない。すでに「国連子どもの権利委員会」が1998年から2010年にわたり三度、日本に対してそう呼んで然るべき内容の勧告をしているのだという。これはたしかに知られていない。このことについての提言は、日本の教育界において、これから確実に取り上げて議論されなければならないものであろう。蔑ろにされているのは、政府や報道が知らせていないからである。




Takapan
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