本

『天才のら犬、教授といっしょに哲学する。人間ってなに?』

ホンとの本

『天才のら犬、教授といっしょに哲学する。人間ってなに?』
セシル・ロブラン、ジャン・ロブラン文
リオネル・コクラン絵
伏見操訳
岩崎書店
\1365
2010.8.

 10代の哲学さんぽ、というシリーズの最初。続きがまた発行されるらしい。
 殆ど絵本のような、おとぎ話のような。確かに、ちょっと開いてみる気持ちにはなる。
 そもそも哲学というもの、大人はしばしば、どこかでちょっと気になるものだ。チャンスがあれば読んでみたい、と思っているらしい本のひとつであるという。だとすれば、この本は子ども向けでなく、大人のためにぴったりということになる。
 しかし、あくまでも子どものために書かれた本である。唐突に哲学者がそこにいて、のら犬が現れる。原稿が進まない哲学者に対して、のら犬が口を利いて、哲学の対話を挑む。基本的にはのら犬がリードしている恰好だ。
 人間とは何か。動物と、どう違うのか。人間こそ上位と思い込んでいた哲学者に対して、のら犬は、動物が如何に優れているか、人間が如何に劣っているかを示す。集団で暮らす理由、働くとはどういうことか、仕事と幸福、理性だと言う人間の優位が、信じられないというのら犬の苦言、文化とは何か、そんな問題が話し合われていく。
 私の心にぐっと届いたのは、のら犬の次の発言だ。人間の自由が自慢されているようで、犬は不満なのであった。「あんたのいう文化は、不必要な欲望がつみかさなってできている。人はそれをえらぶどころか、ただ手いっぱいにかかえこんで、ふりまわされてるんだ」
 さして重要でもないものが積み重なっているだけのものか。それを選ぶ自由があるなどと能天気に考えているかもしれないが、実のところ、ありあまる情報や物品、そして欲望というものを抱え込んで、不自由極まりない状態にあるのではないか、というわけである。のら犬というキャラクターは、この自由性を象徴している。
 ところどころ、歴史上の哲学者の言葉が引用される。また、その哲学者についての簡単な紹介がなされる。子ども向けに、興味を惹きそうなソフトな話題が紹介される。デカルトの寝坊、カントの正確な散歩など。のら犬の話の合間に必要に応じて引用されたそれらの言葉は、巻末にまとめて改めて示される。そこでは、問いかけあるいは演習の場ともなっていて、読者に思索を求めることになる。それには解答がある場合もあるが、明確な解答が決まらない場合もある。それでいい。それが哲学なのだ。読者が、その位置から思索をスタートさせる。そこから新しい哲学の営みが始まる。これが教育的にも優れたことであるばかりか、哲学の根本でもあるからだ。
 著者の中には、フランスでそうした教育にいる人がいる。フランスは、哲学は重要な科目の一つであり、高い教育を受ける者が必ず受けるような、優れた哲学学習の伝統があるはずだ。この本のような問いかけは、実は年中あちこちで行われていることであるわけである。
 私は切に思う。日本にも、このような教育の中での哲学あるいは哲学対話がどうしても必要である、と。それは決して個人主義を助長するものではない。哲学を知らない国民がかくも大きな経済力をもって世界をリードしていく、というふうにはならないであろう。哲学を教育という場面で捉えるためにも、ずいぶんソフトではあるが、この本のもつ意味は大きいと言えるだろう。




Takapan
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