本

『新しい道徳』

ホンとの本

『新しい道徳』
藤原和博
ちくまプリマー新書072
\798
2007.12

 教育の世界には、誰しも一言言ってやりたくなるものらしい。
 それには、極めて個人的な視点のものと、広く全体に対する理想のようなものと、大きく二つがあるようだ。
 ときに、素人の意見というのが最も健全であるように見えることがあるのも、他の分野と同じで、教育に関しても、素人の視点を侮るわけにはゆかない。ただ、全体に適用するのは教育というよりもむしろ政治的な考え方によるものであるから、たんに教育だけの配慮でなんでもできるわけではない。しかも、つねに絶やすわけにはゆかない問題でもあり、百年先の未来を築く責任もあり、現場は実に大変なものであろうと思う。
 さて、その現場に飛び込んだビジネス畑の著者は、自分の思うところを実践する機会を与えられたわけで、生き生きと活動なさっているご様子。大いに刺激を与えて戴きたいものだ。
 まず「道徳」という言葉の定義を、広辞苑に頼るあたりで、どういう方であるのかちょっと予想がつくといった事態もあったが、その道徳は古くは感情的であったのを、理性的にすればいい、という方向性を掲げるところで、議論はうまくないものだとはっきりし始めた。議論の上手な人は、そういう「情緒的な理解」で話を進めようとすることはしない。
 なにも逐一論評を挑むつもりはないので、細かなところを指摘するつもりはないのだが、最初にケータイやテレビを宗教のような存在だとしきりに言い続けるところに引っかかりがあった。すると、この問題は、最後の最後で端折りながら明らかにされた。この著者は、学校を宗教の場にしたいのである。
 誤解があってはならないので、説明しておこう。西欧において、教会が地域のまとまりを新たに作る作用があるとこの著者は言う。しかし日本では教会が、あるいは寺院がまとめるなどはできそうにない。日本でこの教会の役割を果たすのは、学校しかない。だから学校は、地域の人がさかんに出入りし、参加する場所であるべきで、教師と生徒との閉鎖的な社会を形成してはならない、と言うのである。つまり、欧米で教会が果たしている役割を学校へ、ということだから、私はそれを逆手にとって、学校を宗教の場にしたいと考えているらしい、と言ってみたのである。
 著者は、そこで生じる子どもたちと地域の大人たちとのつながりを、「ナナメの関係」と呼び、これが学校という場で成立していくことをいたく求めている。
 唯一の正解ではなく、納得解を求めるべきだと言ったり、いじめは大人も常に行っていると言ったり、著者はよいこともよく言っている。しかしまた、成功した大人にありがちな自信満々の論理が続き、とくにいじめについては、自分の理想プログラムで減少するはずだと楽観、あるいは達観しているふしがある。だがそれでは、傷つき苦しんでいる子の救いにはならないし、遺書を簡単に教材にしてしまう神経を、私は容易に理解できない。また、最後には、障害者という言葉の使い方に、私は違和感を覚えた。教育関係者は、ふつうこうした表現をとらないと思うからだ。
 やはりこの人は、ビジネスパーソンなのだし、経済論理で動かそうとしているのだという気がしてならない。そこへ、個人的な教育の理想を実現しようとするのだから、その試みそのものが無意味であるなどと言うつもりはないが、経済と同じく、先が読めないし、99匹の羊を守ることができたとしたら、1匹の羊は失っても仕方がない、という前提がどこかに見え隠れするようにも思うのだが、私の誤解だろうか。




Takapan
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