本

『新版パウロ伝』

ホンとの本

『新版パウロ伝』
ジェームズ・M・ストーカー
村岡崇光訳
いのちのことば社
\1365
2007.4.

 新しい本なのだが、1963年の版を新たにしたものだという。半世紀を経て、実に息の長い試みである。多少の訂正を試みたというからには、実のところ大きく変わったものではない、という意味でもあるだろう。二千年の時を経て不死鳥の如くよみがえったと形容されるイスラエル国ではないが、ひとつのさりげない書物としては、驚異的な事実である。
 それだけ、読まれるだけの価値があるということだろうか。そこに意味を見出したからこそ、出版されたことになる。ただ、その辺りの事情については一切説明がない。訳者が、この本の背景について概説している程度である。できればこの出版の意味について、どこかで明らかにして欲しかったと思う。
 というのも、内容的には古さがどうしてもつきまとう。啓蒙書としての意味は聖書においてそう変わるわけではないし、そういうふうに言えば、古来の教父の著作がいまだに愛されて読まれるというのも、当然というふうに思えてくる。だが、近代の百年というのはだいぶ趣が違う。
 そう、百年である。実にこの原著は、1884年の出版なのである。スコットランドの神学者の著作が、一世紀の時を経て、今日本語で現れるというのは、ずいぶんと珍しいことだと言える。この百年の間、神学は大いに変化した。その都度、この読み方が正しいなどとも言われ風のように学会の向きは変わった。また、新たな考古学上の発見や聖書本文の批判検討も様々になされ、学問的に充実した成果をもたらしたことは、聖書執筆の最初の百年間に匹敵するほどの大きな変化であったと言えるのではないだろうか。
 この本は、パウロの生涯を描いている。それを、一つの項目がだらだらと長引かないように短い章立てをとっており、いわば段落に標題がつきそれが積み重ねられて一冊のパウロ伝となっているという具合である。印象としては、伝記ではあるものの、聖書という史料に制約されたパウロの生涯の駆け足の整理であり、それらは聖書のパウロ書簡やルカの福音書を中心にして、盛んに調べられ採用されて繋いで綴られていっているという感じである。つまり、ここはパウロの身になって、あるいはパウロの人生を新約聖書から再構成するような試みなのである。
 そこには、豊かな想像力が作用している。ほんとうに小説であるかのように、空想が聖書本文の記述の背後を埋めている。それは人間味があって分かりやすいと思われる反面、果たしてその想像が正統的であるのかどうかの疑問も当然含むわけで、学術的にはどうだか分からないという面をどうしても残してしまう。しかし、だから意味がないなどというつもりはない。これは一つの小説なのだ。相当に実際の史料に基づきながらも、著者がその豊かな想像力によってそれらを一つの糸につないで示そうとした試みであり、ストーリーなのである。
 だから、後の学問の成果により、パウロ書簡と言われながらもパウロその人による著作とは考えられない手紙が分かってきたりするのだが、この著者はそこまで立ち入った議論については知らないのか情報として入ってこないのか、実に素朴な形でパウロの手による書簡であると信じてそれを前提として叙述している。実際のパウロはそうではなかっただろうと思われるような部分だと今なら誰もが思うところを、素朴にパウロがそう書いたと信じて疑わない姿勢が見られるということである。
 だが、そうであったとしても、この再構成されたパウロは、生き生きしている。決してセリフのやりとりがそこに展開されているわけではない。淡々としたまるで生態記録であるかのようなあっさりとしたものではあるが、信仰と伝道の息吹が十分伝わってくるのはさすがである。
 というわけで、ここにあることを根拠としてパウロはそうだったのだ、と決めつけて広めることは控えたいところであるが、十分面白くパウロその人の心情に近づいていけるようなストーリーである。また、使徒言行録ではどういう事態であったのか聖書を見ただけではよく分からないという方にも、このストーリーは、要点をコンパクトにまとめているといえるので、参考になるだろう。
 学術書というよりは、信仰書に違いない。でも信徒ならばどこかで、パウロという人についてまとまった解説を手にする機会をもつべきである。そのためにこの一冊は、悪くないまとめであると言えるだろう。




Takapan
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