本

『ネット・バカ』

ホンとの本

『ネット・バカ』
ニコラス・カー
篠儀直子訳
青土社
\2310
2010.7.

 サブタイトルの「インターネットがわたしたちの脳にしていること」は、原題のサブタイトルと一致しているが、題そのものは異なる。「浅瀬」というような単語である、と訳者があとがきに載せている。インターネットに頼ってばかりの生活の中で、私たちの思考能力が浅瀬のようになってしまう虞がある、ということであるようだ。
 こうしたことは、ネット利用者の頭の片隅に常にあるような気がする。これでいいのか、こんなふうだと自分は……と、どこか不安を覚えているのである。それはたぶん潜在的であることだろう。自分でも意識していないかもしれない。
 何かを考える。すると、調べなければならないことに気づく。それはどうした分かるのか。以前は、それの資料の在処から考えなければならなかった。そもそもどこに調べに行けばそれは見つかるのか。誰に訊けばよいのか。そこからスタートした。そうして、何日もかかって、一つの解答に行き着くのであった。それを探している間に、私たちはまた考える。考えが深まったり、時には探しているものが間違いであることに気づいたりもする。あることを確認するために、ずいぶん長い経路をたどるのであった。
 それが今や、検索キーに文字を打ち込み、ポンとクリックするだけでダダダッと解答が並ぶ。実に便利なものである。私もご多分に漏れず、その恩恵に与っている。
 だから、以前の調べ方を知っている者にとっては、「こんなことでよいのだろうか」という思いが、どこかに隠れているのである。
 しかし、生まれたときから、あるいは学校に行き始めたときからすでにこのような調べ方になじんでしまい、それが当たり前だと思っている世代にとっては、どうなのだろうか。これもまた、大人たちの不安材料となる。今後、世界はどうなっていくのか。子孫たちは、どのような思考をするようになっていくのか。
 自分たちが、文明の利器の恩恵を受けてきたことをも忘れてしまうほどの懸念である。つまり、私たちは、川に洗濯をしに行かなくて済むようになった。食事を一からすべて用意しなくても、電子レンジで調理ができるようにもなったし、甚だしくは、総菜を買ってくれば生きていけるようにもなった。おにぎりやお茶でさえ、自分で作ることができるのですか、と驚く若者もいる。そんなもの、昔は外で買うことなどめったになかったのである。
 ソクラテスの理論を、筆者はよく持ち出す。書かれた書物があれば、人は記憶をしなくなり、考える能力が弱くなるであろう、と。例のごとくソクラテスの極端な論理の中に登場する理屈ではあろうけれど、ひとつの理屈であることは確かだ。しかし、メモをすること、筆記することで、私たちは膨大な知識を積み重ねていくことができた。筆者は、インターネットの流れが、このソクラテスの間違いを証明することになっている、と言う。だが、なによりも筆者自身がこのインターネットでおかしくなっているという自覚をもった中で、この問題に取り組んだこと、しかも、この問題を考えていく中で、多くのインターネットや電子メールの恩恵を受けているということで、ほどよい共存を計っているということが、見逃せない。また、筆者もそう感じている。
 時代を逆走することは、できないであろう。しかし、時代に棹さすばかりがすべてではない。私たちは、つねに哲学していくのでなければならない。結局のところ、そうなのである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system