本

『悩む力』

ホンとの本

『悩む力』
姜尚中
集英社新書
\680+
2008.5.

 その後、「続」も著されているが、まだそちらは手にしていない。どちらもよく読まれて本のように聞いているが、とりあえず元のものについて触れたことだけで触れてみる。
 悩むことは、ネガティブに見なされる。昔のことだが、「ネクラ」という語が流行り、悩んでいる人は暗くてダサいというレッテルを貼られることがあった。この語そのものは流行らなくなったが、その捉え方は今も生き残っているように見える。私たちは、人を明るいか暗いかで二分しがちである。そして、人生について真面目に考えようとする人を、暗くなるなよと、さっぱり楽しくやるほうへと促すのが通例である。ハイデガーは、こういうのを頽落と呼び、生き方として非本来的な、それこそダサいものだと断じた。この精神は、理屈っぽく論ずることが美徳であるかのように思い違いされた観もあるが、ある意味でこの著者は、そうした態度を是としていく道を示そうとしている。
 いや、悩むことを逆に強みにしようではないか。弱さはそれを掲げるときに、逆に強さにもなりうるのだ。姜尚中氏は、政治学を中心として、広く世間に知的情報を発信する、いわばオピニオン・リーダーであるが、NHKの番組で、夏目漱石を読み解く専門家として一カ月にわたり登場したこともあったほど、漱石については身を浸して読み繰り返している。その夏目漱石とマックス・ウェーバーとを、悩みつつ生き抜き、それを逆手に納得のいく生涯を送った実例として扱っているように見える。
 なんだかうまいこと世渡りをして、調子よく過ごし、社会的成功をすること、それが果たして幸福な人生であるのかどうか。幸福というのはそれにまさるものではない、と思う向きも当然ある。その見方が、悩む人をさらに追い詰める。何をそんなに真面目くさって悩んだりしているのだ、とでも言うように。
 真面目に物事を考えるから、悩む。それは、いかにも不器用な生き方であるかもしれない。だが、そこには、自分を見つめ捉える確かな歩みがある。他方、そういうのは自分には合わない、という読者もいることだろう。結局、悩むというのはダサいことだとしか見ない者には、この本の著者の見つめているところは見えてこない。悩まない者には、救いの手も及ばないということになろうか。
 確かに、いまひとつ読者の心をがしっと掴む迫力に欠けはするだろう。悩むことに意味があるのかと思う人には、噛み合うところもないだろう。その1つの理由は、私は信仰にあると見ている。姜尚中氏は聖書に生きる基盤を持っている人である。しかし、何事でも信仰、信仰と口にしながら物事を説く人ではない。それでいながら、その信仰の領域から世界を見ていることは確実である。つまり、実は信仰の世界でものを言っているのだが、その世界を知らない読者は、著者がどのような視野の中で物事を見ているのか、をズバリと知ることができないでいるという具合である。だから、何を言っているのか分からないという場合もありうる。あるいは、別の意味で受け取られてしまうという危険性もある。立場や視座の前提が異なる場合には、同じ言葉でも違う意味に受け止められることは当然とも言えるからだ。
 その意味で、この書では、信仰の視点を表に出さないとき、誤解を与えてしまうことはありうることであろうと思われる。同時にそれは、ウェーバーについてそのキリスト教的背景について触れる上でも、著者が見ているのと同じ世界が伝わることが薄いものではないだろうか。
 悩んだ挙げ句に、そこから解放される。著者のそのような一種の「飛躍」には、信仰によるコペルニクス的転回がある。だが、その体験を知らない人がその様子を見ても、理解できるものではない。少なくとも、共感できるものではない。「悩む」という題に対して、読者は自ずからイメージをもち、期待するものがある。だから、その期待から外れてしまう印象をもつ場合もあるものなのだ。続編が出されたのは、この一冊で十分伝わりきれないと著者が感じたからではないだろうか。
 姜尚中氏と同意見ではないかもしれないが、悩むことは、力になることを、私は察知している。悩まなければ、解放もないだろう、とも思っている。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system