本

『「私」の秘密』

ホンとの本

『「私」の秘密』
中島義道
講談社学術文庫2129
\760+
2012.9.

 中島義道氏の本を開くのは、案外久しぶりである。社会に対して筋道の通った反抗をして、尖った生き方を見せていた時代から時が流れ、私が読んだいまには齢七十を数えているのではないかと思う。教授を営んでいた頃もあったが、その後一般向けの著作をいま生業としていて、失礼な表現かもしれないが、「不良哲学者」をステイタスにしているかのようにさえ見える。マスコミからは「闘う哲学者」と呼ばれており、そこそこの売れ行きがあることで知られる。どうかすると世間は、哲学という名に弱く、物事をきっちり考えることの意味が必要だと思われると、けっこうなびいていくのだ。
 本来カント学者である。だから私にとり、気になる学者の一人であった。しかし、人付き合いの中に困難を覚えるなどといい、カントのような原則的倫理観を貫くとそうなるのだが、世の中に対しても過激な発言が目立っていた。またかねてから死の問題をずっと考えており、それは個人的な関心としてずっと課題であったことと思われる。やがて大学から退いて哲学塾を主宰するようになり、少しおとなしくなったようにも見えるのだが、哲学的に厚みを増し、すぐれた実りをもたらしているのではないかと、隠れファンとしては期待していたわけである。
 その期待を裏切らなかったことが、この小さな書物で感じられた。「私」という題材によるが、哲学者の思想を辿るというような安直な解説をするのでなく、自分の見出した論考をずばりと斬り込んできた。個人的なその死の問題意識の強さからか、時間論と自我論を軸にしてきたように感じられるが、まさに今回の著作はその自我論。そして、その自我を、時間という観点から考察することにしている。
 これは論文ではない。2002年に講談社選書メチエというシリーズの一冊として書かれたものを、その後の思索の成果を取り入れて、訂正や補充をして講談社学術文庫として出版した。それが2012年であった。一般向けの読み物であるとはいえ、哲学の知識や一定の訓練がなければ、おいそれと読めるものではない。それでも、具体的な事例を丁寧に取り上げて、少し根気があれば読める程度に仕上がっているかと思う。文庫で200頁であるから、分量としても限られたものであり、ここはひとつ思考訓練としてどなたも挑戦してみて戴きたいものだとも思う。
 副題に「私はなぜ<いま・ここ>にいないのか」とあり、謎めいて聞こえることは、本を手にとってもらうための狙いなのかもしれない。だが、実にこれが本書の核心をずばりと突いたものとなっており、決して奇を衒ったわけではないことは、読んでいけば分かる。よい題名であると思う。また、論点がぶれず、一筋でぐいぐいと通してくるので、最初の問題提起さえ呑み込めれば、きっと流れて読んでいけるものだろうと思う。
 私は爽快な気持ちで読んだ。とくに、デカルトの「我おもうゆえに我あり」という有名な近代思想の基本テーゼについて、根本的にその基盤を引っこ抜いてしまったところに、魅力を覚えた。えてして、いろいろ近代批判を安易にするコメンテーターも、このデカルトを前提として立って話していることが多い点は否みがたく、そもそもそこに含まれる問題が何であるのかという問いを立てようともせずに、またどう立ててよいか分からずに、結局その「我」の上でただ踊っているだけ、というようなことがままあるのである。
 カントはこのデカルトの自我について、そういうものを認識し、また定立することができないことを指摘した。一方、人間理性を検討する中で、統覚という語を用いて、認識したり希望をもったりする人間の中枢部について構造を明らかにしようとした。しかし「私」が「私」であるために、すでにそこに時間の要素が前提されていたという指摘は、カントに限らず、これまでの自我を論ずる考えの中では、私が聞いたことがないような、しかし目を開かれるような観点だと思いました。きっと哲学の分野ではそれもよくあることなのかもしれないが、私には面白かった。前世紀の言語哲学を踏まえたような、しかし「私」の根本構造を時間を契機に意識していくあり方は、大いに参考になったし、説得力もあった。
 過去を想起するからこそ、私は私である。その想起したことをいま掲げることによって初めて、私というあり方を知ることができる。このような指摘は、誰もが当たり前に「私」を有しているという、通常の思い込みを一掃してくれたのだ。つまり、哲学的に人間の意識なり理性なりを分析していく時に、実は多くの哲学者が見落としていることがある。それは、子どもはどうなのか、という点もあるが、それにも増して、知的障害があったり精神的疾病を患っているとされたりする人が、同じような認識や反応をしないという事実である。これは、福音宣教のときにも、神学的理解として重要である。自分で自分のしていることを、一般の人々のように理解できない精神の人にとり、救いとは何であるか、ということである。信じて救われるとはこういうことである、と言ったとたん、そのような人が見事に排除されてしまう構図を、しばしば神学は表に掲げてしまっているのである。
 この中島氏の自我論は、私を私として意識していないというのはどういうことであるのか、という問いにも光を投げかけている。通例私たちが、誰しも当然こうだ、人間ならこうだ、と決めつけてしまうようなあり方が、事実できないタイプの人たちを除外している点を反省させ、それはいったいどういう点で違うのか、そこに言及している部分が、本書にはあったのである。
 このことは、また改めてどこかで私の捉え方としてまとめてみる必要を感じる。つまりはこのことが、救済論を支える強い基盤となりうるように感じられてならないのだ。神は信じる者だけを救うのか、それとも万人を救済するのか、この時間意識の自我論は、いろいろな意味で、良い時に読むことができたものと思っている。




Takapan
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