本

『無差別殺人の精神分析』

ホンとの本

『無差別殺人の精神分析』
片田珠美
新潮選書
\1155
2009.5

 秋葉原無差別殺傷事件。
 池袋通り魔殺人事件。
 下関通り魔殺人事件。
 大阪教育大池田小事件。
 コロンパイン高校銃乱射事件。
 ヴァージニア工科大銃乱射事件。
 並べるだけでも悲しくなるし、またその犠牲者とその家族に対して不敬なことをしているような気がしてならない。言葉にしてここに置いてしまうことが、どんなにその命を軽くしているか。その犯人たちのしたことに私たちもまた手を加えているだけのように思う。だがまた、この犠牲者たちを忘れてはならないという意味では、これらの事件から目を逸らしてはならないとも思う。
 それから、あの犯人たちだけが悪いのであって、私たちが正義である、などとも考えてはならないことも改めて痛感する。もちろん、たんに社会が悪いなどというものではない。私たち一人一人が、確実に、こうした事件を生む何かを生産し、あるいは助長している。そうした思いを、無意味に打ち消してはならないのだ。
 著者は、精神科医として、精神分析の視点から犯罪心理を問い続ける。そのために、このいわゆる無差別殺人をいくつか並べて問いかけた。そこに流れるものは何か。どうしたら防ぐ可能性が広がるのか。いや、何らかの形で起こってしまうことをすべて不可能にすることは、もしかするとできないのかもしれないが、それでも、問いかけなければならない。精神分析に携わる者として、無力感を抱きつつも、少しでもできることがないか、と自らを奮い立たせる。
 著者の誠実な思いが、叙述のあちこちに見られる。それでいて、情緒に走っていくわけでもない。誤解してはならないが、この本では酷い表現は殆どなされておらず、それは犯行を軽視しているわけではない。抑えているのは文脈上当然ではあるけれど、その分よけいに、犯罪に対する憎しみや怒りというものを、私たちは感じるべきなのだ。
 だが、この犯行を許したものは何だったのか。それは私たちとどう関わるのか。
 著者は、いくつかのポイントに絞った結論を下している。その結論でよいのかどうか、これはまたこれからの学会や私たち一般の人々が検討していく仕事だろう。だが私たちが良しとしているもの、たとえば「君たちには無限の可能性がある」という励ましによって、追い詰められていく若者がいたという事実、そしておそらくは少なからぬ若者がその思いを抱いており、そのごく一部が犯行に及んだという事実を、私たちは意識しないで通り過ぎてはならないと感じるのだ。
 あまりにも痛々しい。しかしそれは、読者一人一人と無関係ではない。精神科医の仕事としては、それの原因を分析し、いくつかの原因を提示しなければならない。しかし私たち一人一人の責任は、そうとは限らない。分析も提示もできないかもしれないが、出会う人に対する自分の姿勢と、それからまた、自分自身がこのように破綻しないかどうか、そうしたことを問い続ける必要があるだろうと思われてならない。




Takapan
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