本

『盲人の癒し・死人の復活』

ホンとの本

『盲人の癒し・死人の復活』
及川信
一麦出版社
\1900+
2013.2.

 先に、アダムとエバの物語についてご紹介したと思うが、同じ筆者による、似た企画ではある。今回は、ヨハネによる福音書の中の2つの話題である。生まれつきの盲人が見えるようになった話が9章に長く掲載されている。また、11章には、ラザロの死と復活の話がやはり長く描かれている。長いとはいえ、本書はこの2つの場面だけの説教でできており、半分が一つの章からというわけで、著者の教会では、このような形で講解説教が長く続けられているようで、礼拝説教としてもここまでくると異例ではないだろうか。前後しつつ同じ箇所が延々と説かれていくのである。
 しかし、だから冗長であるとか、毎回同じことを言うとか、そういうことではなさそうである。実は、それだけ深いものをこのエピソードはもっているということである。ユダヤ文学では、メノラーのように左右対称に関連事項が描かれており、中央に重要な点が聳える形式になっていることが多いというが、ヨハネによる福音書の中央部に、これらのエピソードがあるのだ。しかも、復活はより中心的であり、これこそがヨハネの伝えたい最重要課題であるというのも、言われてみればその通りである。
 その他、さりげなく繰り返し出される言葉に注文すると新しい視野が開けてくるなど、読み手としてもずいぶん勉強になる。冒頭で「見る」という語が数種類使われていて、使い分けられているというところから始まるが、なるほどニュアンスの違いがよく分かる。日本語でもそうだ。「見る」と言えば同じようだが、「視る」「看る」などを充てることができるし、漢語を使えば「凝視する」「注視する」など、多々あることを理解する。これがギリシア語でもそのようなものなのだと考えるとよい。微妙に使い分けるのは、ちゃんとした理由があるはずだ。語感が違うのだから。さらに、ヨハネ伝の著者は、かなり巧妙にそのあたりを構成しているようなので、決して適当に配置しているのではないことが、本書を読み進むと分かってくる。
 だが、学術的なものだ、と考えるとよろしくない。本書のメッセージは、学問的にどうとかいうものではない。聴く者・読む者を生かすことばが扱われているのだと思う。ひとを生かすために、原典や背景知識を縦横に活用し、聖書の他の個所の思想と重ねてくる。とくに私はそれを読んだのでよく分かるのだが、創世記の初めの部分については、実につながりの深いものがあり、再び先の説教の要点が扱われるということもある。説得力がある、というよりも、聖霊の働きで神の心がずんずん響いてくる、という経験を読者はするだろう。
 また、読んでいて私は心が震えるのを覚えたのだが、それは、私と霊的な感覚がたいへん似ているということが分かってきたからだ。聖書のどのことばをどのような角度から理解するか、あるいはまた、聖書のことばに触れたとき、どのような立場にいて、どのような景色を見ているか、それが私と一致するのである。自分に絶望し、ずたずたにさせられた中で神の前に引きずり出され、そこに十字架のキリストがいて救いを経験する、そのような著者の証しも本書の説教の中に明らかにされているものがある。これも私の心に激しく響き襲う。まさに私もそうでしたよ、と叫びたくなる。
 本書もまた、「説教と黙想」という言葉が題に付けられている。たんに説教録ではない。牧師は、会衆に説教した内容に加え、もう少し膨らんでいた世界をも盛り込みながら、改めて読むに値する原稿としている。デボーションの成果を踏まえ、より厚みのある、深みのある説き明かしとしている。この考えにも私は賛同する。
 こうして私個人にとっては、これは自分の心の風景を描いているようにも見えたし、また、私の信仰も殆ど同じであると言ってよいように思えることで、励まされもするし、感動もした。そこへ教えられることがたくさんあるわけで、私はわくわくしながら最後まで夢中で読んだ。そうして、同じ著者の別の本もまた探そうと心に決めたのであった。




Takapan
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