本

『もっと教会を行きやすくする本』

ホンとの本

『もっと教会を行きやすくする本』
八木谷涼子
キリスト新聞社
\1575
2013.11.

 最初「もっと教会に」かと思ったが、「教会を」であった。
 この助詞ひとつの違いで、ターゲットがまるで変わってしまう。「教会に」であれば、これから教会に行く人のためである。しかしここでは「教会を」である。つまり、教会サイドの人のための本なのである。
 教会は敷居が高い、などと教会側の者が口にするのは、わりと失礼である。それは、教会が立派なところで、人々が地位が低いので心苦しく、訪れることができない、という意味だからである。その意識が、新しく教会を訪ねようとする人にもちゃんと伝わってしまう。
 それは、この本にも記されている。「どなたでもご自由に」と言いつつ、名前や住所を根掘り葉掘り訊かれたり、皆の前で挨拶しろなどと強要されたりもする。また、聖体拝領関係のある教会では、信者でなければ、と追い出すような言い方をされることも実際あるという。これは確かに看板に偽りがある。
 ところが、教会に属する者は、なかなかそういうふうに教会の問題点を指摘できない。「教会批判をしてはならない」という鉄則があるのだ。確かに、牧師の立場としてみれば、安易に教会はああだこうだと論じてもらうことは不愉快である。また、実際それが教会内のつながりを妨げかねないことも確かである。しかし、それは何らかの形で意識されなければならない。でないと、日本のキリスト教会にありがちな、エリート意識のようなものがちらつき、とても原始教会のように虐げられた人々のための福音ではなくなってしまう。歴史の中でも教会にそういう反省点が必要なことは度々あった。今でもそうかもしれない。
 そこで、この著者、教会の外の立場から、教会についてクリスチャンが言いにくいことを、はっきりと告げ知らせてくださった。
 実にありがたい本である。こんなふうに、礼儀を保ちつつもずばりと言ってくださる方は、そうそういるものではない。しかも、これだけの実践を重ねてくださっている。殊勝なことだ。「教会」というものに、キリスト教の理解が傾きすぎているのではないか、などと横やりを入れる必要もないだろう。
 先に『なんでもわかるキリスト教大事典』という文庫本の熱心なあり方に舌を巻いたが、今回はもう直線的に、日本のキリスト教会の至らなさや改善点を真正面から取り扱っている。どれもが実際に自分が訪ねてのことだから、説得力がある。というより、そういう教会があるのだ、という点に、クリスチャンもまた教えられる。
 特に、カトリック教会や正教会のありさまも指摘されることは、プロテスタントの私にとってはあまり知らないことである。それが特定の訪問した教会に偶々、という場合もあるだろうが、筆者としても、必ずしも偏った情報を流そうと意図していないようであるから、おそらく複数の場所で似た傾向があったと理解すべきだろう。そして、プロテスタント教会も、その比較の中で告げられると、批判するにしても褒めるにしても、偏った思い込みではないことは確かだと思われる。
 何よりも、キリスト教の歴史について、特にその英語の用いられ方について元来関心をもち調べてきた筆者である。歴史の厚みの中で告げられる事実は重いものがある。多くの教会を実際に訪ね、それぞれが新来会者に対してどういう反応を示すか、実際に体験してきたことが、この本の背景にある。建前や口上だけで判断しているのではない。自分が実際に受けた扱い、見たこと、そして手に入れた教会案内などの印刷物、それらすべてがこの本のネタなのである。
 これは説得力がある、などという代物ではない。現実のレポートそのものではないか。
 しかも、教会に属するクリスチャンは、他の教会の仕組みについては実に疎い。著者のほうが、はるかに広い見聞をもつ。むしろ学んでみるつもりで、クリスチャンはこの本にあたるとよいだろうと思う。決して、見下すような見方をしてはならない。礼拝の開始時刻は書いてあっても、終了時刻を書いている教会は稀である。しかし、私たちは、終了時刻を無視して参加できるだろうかと通常の感覚で問いなおしてみれば、それを知らさないほうが普通でないことに気づく。コンサートは自分から望んで料金を払って行く。そのときには、終了時刻が書いてない場合がある。教会もそうしたファンだけを集めるのであれば、終了時刻はいらないだろう。だが、そうだろうか。本気で新しい人に、来てほしいと思っているのだろうか。
 こうした視点でまとめられている本である。もちろん、礼節は守っている。キリスト教の悪口を言おうとして書いているのではないことは、読めば分かる。好意的に、だがはっきり言ったほうがよいことについては、伝わるようにはっきりと書く。これが、書く者の務めである。
 ただ一方では、教会の礼拝というのは、信仰している者の営みであり、新しい方のためのショーなどではないことも確かである。本来は、信仰者だけが知る大切な礼拝であることも間違いない。新しい人を気にして配慮しすぎるというのも、本来の目的ではないのかもしれない。カトリックは、そういう考え方にやや近いように思われる。求める人は真剣に求めて、その礼拝に参加できるように学ぶべきである、というわけである。私自身は、そういう姿勢で最初教会を訪ねた。だが、自分の居場所として、安心できるつながりとして、教会というものを求めている人もいるのであり、プロテスタントはその方面を大切にしようと考えていることが多い。だがそれなら、やはり親切に案内や配慮がもっと必要なのだ。
 筆者は、ポスターや看板などのアピールの仕方、そしてネットの利用についても、細かくアドバイスをしてくれる。本当にありがたい。教会の執事関係者には、必読の一冊であると私は見ている。それが、謙遜ということについても、大切なことを教えてくれる。
 繰り返すが、こんなにも親切に、何もかも指摘してくれる人は、貴重なのだ。キリスト新聞社の季刊誌に連載された原稿がもとだというが、こうした企画についても、感謝したいところだ。




Takapan
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