本

『黙示録』

ホンとの本

『黙示録』
岡田温司
岩波新書1472
\840+
2014.2.

 西洋美術の専門家であり、多くの著作をもつ。今回のテーマは、新約聖書の黙示録。前半ではそのヨハネの黙示録そのものを読者に提供することに労力を注ぐ。後半で、その歴史的な捉え方を、西洋史と共に検討し、最後に現代の芸術、特に映画における黙示録並びに終末観というものに観点を向けていく。
 およそ、オカルトや終末思想と共に、黙示録というものを捉えている日本人は少なくないであろう。聖書を開いたことがなかったり、聖書そのものへの関心がなければ、黙示録というのは終末観を煽る迷惑な存在であるか、あるいは映画を面白くする題材であるという程度のものであるかであろう。
 著者もまた、これを宗教的な切実感により受けとめるということに走らず、美術において、すなわちまた人間の精神的な産物において、この黙示録文化を辿ろうとする。西洋美術のみならず、イメージと文化の歴史の紹介ともなっている。この本の副題は「イメージの源泉」なのである。
 受け取り方によっては、西洋人の異様な終末意識を外から眺めるだけの営みになるかもしれない。信仰者がこれをどれほど重要視してきたか、というよりも、そのいびつな理解が暴走し、政治や世界を曲げてきたか、というような批判の目で見るように読者を導くことになる危険性はあるかと思う。しかし、最後に著者は、現代の戦争や環境問題につながる危機意識が、ただの楽観や、その逆にただの脅威としてのみ持たれるべきではない、というところに誘っているかのようにも感じられた。
 もちろん著者にとり、美術を見つめる眼差しというものは第一である。人間がいかに終末あるいはそこからの再生といったことに、豊かなイメージを必要としてきたか、その歴史を実際的にたどることは、著者の大きなテーマというか、必要な手段として取られているわけである。ただ、それは知らず識らずのうちに私たちの中に巣くっており、それがたとえばオウム真理教に惹かれる若者たちの一要因になっていた可能性も考えさせる。
 また、主張らしいものを強くしていないような執筆態度の中で、二度繰り返していて印象的なのが、これだけの終末観を歴史の中で考えてきた人間が、いまなお戦争を止めず続け、あるいは新たな戦いを起こすようなことをしているのは何故なのか問わなければならない、というあたり、読者は真摯に受けとめたいものである。
 美術のみならず、思想界との関係も常に扱われ、総合的に世界史と世界思想の学びにも有用な構成だといえる。その都度いろいろ異なるテーマでこうした世界史への、あるいは美術史へのアプローチを、新書形式で幾度も提供している著者は、今時代に必要な視点を提供してくれているように感じる。これはたんに文化史の悠長な記述ではない。私たちが生きるために、また未来を築くために、振り返らなければならない風景であろう。人間は、このようにして学ぶことをしなければ、毎度毎度現れた新しい人間が同じ過ちを繰り返してしまうのだ。だが、科学技術は受け継がれてきた。同じ過ちと言いながら、次第にその技術水準は上がってきたわけで、その過ちが破滅と終末をもたらすことが現実になってきている。それが歴史の展開だというのならば、人間のもつ危険性は、ゴム風船にひたすら空気を送り込み続けてきて、いつ爆発して終わりになるか知れないというようなものとして、歴史を刻んでいることになるのだろうか。
 著者の美術史関係の著作の中でも、この黙示録の扱いは、より現実的で切実であると言ってよいかもしれない。本著でも触れているが、かつて黙示録の反キリスト的な存在を、論敵に当てはめてきた西洋人は、一時イスラムをもそれに見立てたわけだが、著者がこれを書いて後、イスラムに対する同様な見解を、世界の多くの西洋陣営がもつような時代をつくりつつある。戦いは続く。自らが終末をつくっているという視点について、どれほどの自覚をもっているか知れず、自分に対して盲目であるような世界史を今私たちが生きているのだとすれば、この黙示録への反省は、決して懐古趣味などではなく、将来を担う学び取りになるのではないだろうか。
 適切な図版も多く、具体的な指摘に説得力もある。著者の理解が適切かどうかに拘わらず、私たち一人一人が、受け止めなければならないテーマではないかと、強く思わされるのである。




Takapan
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