本

『燃える心で』

ホンとの本

『燃える心で』
ヘンリ・J・M・ナウエン
景山恭子訳
聖公会出版
\1500+
2011.3.

 この発行は、改訂版である。その前のものは、1997年に出ている。どうやら、表紙にもある、ネズミたちの可愛いイラストも新版のほうでついたらしい。
 薄い本であり、文字も大きい。私は偶々安価で入手したが、そうでなければ少し勇気がいるかもしれない。だが、ここから受ける恵みは計り知れない。心が豊かになるというのは、こういうことを言うのだ。なんともいえず温かな読後感。神から注がれるものが身に染みていくのを感じる。少なくとも私はそうだった。かつてのピュアだった頃の自分の信仰に戻してもらえるような気がした。そうだ、また頑張ろうという気になってくる。もちろん、それは頑張るということとは違うのであるけれども。
 著者自ら好んで綴ったものだという。つまり特定の依頼や企画により作られたものではないということ。だからまた、ナウエンに与えられた神からの光が行間を照らし、なんともいえない温もりを伝えてくる。心に温かなものを運んでくるのだ。あるいはまた、心の中のゴミやもやもやを、きれいに掃除してくれる、とでも言えばよいだろうか。かつて自分もこんなピュアな頃があったなぁと溜息をするのは、悲しいことであるのかもしれないけれども、またそこに連れ戻してくれる本に出会うというのは、うれしいことだ。
 題材は、エマオへの道。このテキストだけで、一冊分の黙想が続く。あるいは説教と言ってよいかもしれないが、釈義というのとはまた違う。やはり黙想としておこう。副題にも「黙想―聖餐を生きる日常」とはっきり書かれている。このエマオへの道での出来事を、聖餐という礼典に重ねて、聖餐の恵みを余すところなく伝える役割も果たしているように見える。いや、とにかくその場面場面について、細かくことばを吟味し、その場に自分がいるものとして豊かな恵みを受けとるように思い進む。何かを批判しようというためではない。それがまた、読後感を爽やかにしているとも言える。
 私は、ここでは細かく説明しないが、「失うということ」「固い土では水が浸みないこと」「出会った人を招くこと」「イエスが見えなくなったことはむしろ喜ばしい出来事と認めたいこと」「聖餐が何と喜ばしいことであるのか」といったことを、びんびんと感じさせてもらった。その一つずつが、説教をいくつも生みそうなくらい、心の中で感動が膨らんでいったのだ。いままで見えなかった視点から世界が見えるようになる。これが、こうした黙想書や説教集を読むことの醍醐味だ。いくら聖書の解説を読んでも、その研究自体が一つの説であるし、心に感動を揺り動かすというわけにはゆかない。聖書のことばも、自分に向けて語りかけられ、呼びかけられ、それに招かれて立ち上がり出て行くという流れを以て、生きていくことになるだろう。頭だけで理解して分かったつもりになることは実に残念なことなのだ。
 教会生活をいくらか送ってきた方にとっては、本書は、ナウエンの書の中でも読みやすい部類に入るのではないか。もとよりナウエンの著作は読みやすい。だが、それが分かりやすいというだけで突き放したものであってよいはずがない。エマオへの道で歩く弟子たちは2人であった。私たちは仲間と、多少の違う視点をぶつけて読み味わうとよいだろうし、キリスト自身が友となって教えつつ歩んでくださっているとも言える。深い霊想もここから生まれよう。読みやすいということがそのまま、霊的に触発された、ということを以て、今日からの私の歩みが変えられていく、そんな体験を味わうことのできる本である。そして実際、歩みが変わっていくことを願うばかりである。




Takapan
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