本

『黙想と祈りの手引き』

ホンとの本

『黙想と祈りの手引き』
加藤常昭
キリスト新聞社
\2400+
2006.2.

 2004年夏、日本基督教団改革長老教会協議会主催第七回全国青年修養会という長い肩書きの催しがあって、8月5日から7日までの三日間、全国各地から青年を中心に国立オリンピック記念青少年総合センターに集まった面々へ向けて、加藤常昭氏が行った講演と質疑応答の内容を文字にして整えたものが本書であるという。
 その時のテーマは「祈りを教えてください」であった。福音書の中で弟子たちが、主イエスに、祈りを教えてくださいと願い、主の祈りを受けたというエピソードがある。祈りはそもそも教えてもらうものなのか。そうしたところから説き明かし、祈りの深みへぐいぐいと引っ張っていく流れは見事である。それはありきたりのよい子のお祈りの勧めとは違う。人生の酸いも甘いも噛み分けた伝道者の達した境地というと違うかもしれないが、その歩みで見出された神との交わりが、遺憾なく紹介されている。
 もちろん青年ならずとも教えられることは多々あるが、経験を重ねてくると、まことに肯けるもの、その通りだと言わざるをえないことがいくらでもあった。ということは、私は、加藤氏と同じ神に祈っていたのだということも確信できる。そうだ「私の神」もそうなのだ、と同意できることがあることはうれしかった。
 すでに祈りについてはまとまった著作もある著者であるが、ここは若い世代に対して直に語った言葉であり、語弊はあるが、気取ったところがまるでない。その場で一度聞いただけで腑に落ちるように、少なくとも霊的に共通の地盤にある魂の持ち主には確実に届くように、語り聴かせる思いが強いように感じられる。つまり、これを読む者にとっては、ますます目が開かれ、心の奥底がく揺すり動かされるということである。それは、内なる秘密の場所から喜びが湧いてくるというように言ってもよいだろう。
 祈りはまた、そのような神との交わりのことでもある。神が私に語りかけ、呼びかける。私はそれに応える。それは、ひとに聞かせるためのものではない。また、理路整然と述べ挙げるものでもない。こうした点については、最後の質疑応答のところに、より具体的に展開されている。それは私たちクリスチャンが抱きやすい疑問でもあるし、それに対して著者は時に優しく、時に冷たく、神との関係を築く祈りとはどういうものか、質問者が自ら気づくようにと突き放す言い方もする。しかし祈りはそのようでなければならない、とも言える。祈りを教えてくだい、というテーマは、結局のところ、自分と神とが膝をつき合わせたような対話でなければならない。しかしまた、それに何かしら導きもできるというような微妙な観点から、この一冊は、なんともいえない味を出しているように思えるのだ。
 もちろん、この本がすべてではない。この本にある通りに行わなければならない、などというきまりはない。さらにまた、他のあり方があってもよいはずである。しかし、神に向かうという基盤があり、あの荒野でモーセが神に問うたように、サムエルがひたすら神からの声を待ち受けていたように、ダビデが困難の中で片時も主に向き合うことを忘れようとしなかったように、私たちは神の方を向くというあり方に留まる、そのために心がけていたいという現代特有の生活からくる事柄も、こんなにも適切にアドバイスしているという本は珍しいと思う。著者が親しんだドイツの先生や先人たちが見出した祈りの生活についても時折紹介される。縦横に祈りについて説いたこの一連の講演は、確かに充実していた。これを出版という形で広く知らしめてくれた企画に感謝したい。
 最後に、ここにある「黙想」は、カトリックでは常識なのであるが、プロテスタントではあまり重視されていない、というよりも知られていない祈りのあり方であると著者は強調している。私はその黙想や霊操というあり方をある事情で知っていたため、すんなりそうだと受け止めたのであるが、もしかすると著者の言うように、黙想というあり方について、本書は画期的な提言をしているのかもしれない。もしそうなら、プロテスタント教会でよく耳を傾けたら、さらに私たちが、そして私たちの教会や地域、国家ですら、いのちへの道が調えられるのではないかという期待をも抱けるのであった。




Takapan
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