本

『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』

ホンとの本

『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』
青野太潮
コイノニア社
\1800+
2004.9.

 コイノニア社が事業を止めたが、好著であるということで、2016年3月に、新教出版社より2000円で発売されている。中身のある本はこのように、読み継がれていくべきだし、それだけの値打ちのある内容だと思う。
 一連の書というよりは、各地で行った講演や説教を集めて並べたものである。その意味では、どこから読んでも差し支えないのだが、やはりいろいろ考えあって並べたわけであるから、順に読んでいけばよいだろう。説教らしいものもあれば、やはり講演かなと思われるものもあるが、言えることは、どこにもちゃんと福音があるということだ。
 印象としては、聖書を現代的に解釈する方だというのがあった。やみくもに教条的な信仰をもつというよりは、自分でよく受けとめ、理性的に落ち着かせようとするところがあり、そのためどうかすると、信仰と呼べるのだろうかという感想を抱く読者がいるかもしれない、そんな先入観があった。しかし、どうやらそれは偏見のようであると分かった。聖書のことばから真剣に問いかけ、対話をするところに、個人の強い信仰あるいは神との結びつきというものを感じざるをえなかったのである。
 聖書の原語のニュアンスから、日本語訳では感じられないものを感じる、ということには魅力がある。私も好んでやる。しかしまた、考えてみれば、新約聖書のギリシア語というのは、イエスの語った言語ではない。いうなれば、いまこうして私が書いている内容が英訳され、記録に残ったということになる。しかし、その英語が私の心を十分表現できているかどうかというと、疑問に思えることだろう。新約聖書のギリシア語表現というのはそのようなものであり、そのギリシア語にこだわって解釈しても、元のイエスの心がそれにより解明されるというものではない可能性が高い。だから、ギリシア語の時制から、日本語で聞く感覚とは違うのだ、と言われても、もしかするとそれはたんなるギリシア語の問題であるかもしれない。そういうわけで、過度に「原語」を重んじるのも危険が伴うことがあると考える。
 しかしながら、それにしても、この本のタイトルにした、ひとつの説教「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」は、心に響く。旧い訳でもそうなっているというが、パウロの見ていたキリストが、まさにいまここでなお十字架の上からことばを投げかけるという形の信仰については、確かに私ももっていた。それをギリシア語から説くということは、決して私の感情的な思い込みによるものでないということを裏打ちされたようで、心強く感じた。また、それゆえの著者のメッセージも伝わってくる。それは福音である。
 こうして、この説教・講演集は、随所でほろりとくるものがある。それは泣かせるという意味ではなく、信仰の琴線に触れるという意味である。
 淡々と聖書を解するばかりではない。その時々の話題に事欠かず、たとえば講演がそうであるように、世間の事例や裏話などを交え、聞く者の関心を集めるところは、やはり話す仕事の方である。うまい口ぶりが、文字にもなかなかよく現れていて、読んでいくことが楽しくなる。ひとつひとつの話をまとめて読み、十日ほどで読み終えるというのが、最適な読み方ではないかと私は思う。私はそのようにした。
 きれいなコイノニア社の本を偶然、リサイクル店で見つけて購入した。定価よりはもちろん安いが、千円を超えたので、店員が、高いですがよろしいですか、と私にレジで確認した。いやいや、決して高くなどありません。望んで購入したのです。そんな気持ちのよいひとときも背景にあった本である。ラインを引いたところを、また読み返して恵みに浸りたいと思う。




Takapan
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