本

『お母さんは勉強を教えないで』

ホンとの本

『お母さんは勉強を教えないで』
見尾三保子
新潮文庫
\499
2009.2

 70をいまや超えたベテランの女性である。本の終わりのほうで明かしてあるが、もともと国文学の畑の人が、生活の必要上数学の指導をするようにもなり、大学受験までも教えるようになったという。
 どういう形態の教え方であるのか、イメージが湧いてこないが、少ない生徒の一人一人に合った仕方をその都度考えて手間を惜しまず思い切った方法でその生徒や親を変えていくのがお得意であるらしい。
 元々高校の国語の教師だったというので、文章も巧いと思うし、同じ数学を教えるにしても、ただ解けるというのでなく、教えるということについて、利があるであろうことは推測がつく。優秀な方であり、頭脳明晰な方なのだろうと思う。
 実に正統的な教育論を自分のものとしてお持ちで、それを軸に長い間私的に親や子どもの要求に応えてきた。その点、敬服する。
 しかし、この本を読む限り、私はもやもやと気持ちの悪いものがたちこめてくることを避けられなかった。最初しばらくは、よいことが書いてある、とも思えたのだが、だんだん怪しくなってきたのである。申し訳ないが、最後は嫌悪感に支配されて仕方がなかった。
 私は、この著者のように明晰でない。また、教育などとはとても言えない、営利企業の片隅で汁を吸っているような存在である。理想の教育論に反論する材料など、持ち合わせていない。しかし、それでもなお、何を感じたのか――それは、この人の「正しさ」である。
 著者は、この本を見るかぎり、徹底的に「正しい」。どんな場合でも、著者が正しく、子どもを連れてきた親が――殊にその母親が――「悪い」。どこをどう切り取っても、その図式しか出てこない本なのである。
 私は、自分の失敗の事実を忘れはしない。子どもに対してしくじったこと、してやれなかったこと、よけいなことをしてしまったこと、そんなことばかりが頭に浮かんでくる。はて、自分が何か子どもに善いことをしてやったことは、と訊かれても、そんなことがあっただろうか、というのが正直なところである。何もできていなくと申し訳ない、と。それは事実その通りなのだが、はたしてこの著者は、神のような方なのだろうか。それはそれは、自分が善いことをした、ということばかりが綴られ、気がつけば本の最初から終わりまで、すべて、自分がやった善いことしか書かれていない。著者の頭の中には、自分は子どもたちにすべて善いことをやった、という価値観しかないのである。
 強いて言えば、自分の上の娘に対してよくない対応をした、ということは出ているが、少なくとも顧客に対しては、万事劇的に成功を収めたという印象を与えるだけなのである。そして、その親がとことん勘違いをし、無理解で、すべて的を外した親であり、自分が子どもを教えたことで、その親たちが自分にひれ伏した、のようなストーリーが延々と書かれているわけである。しばしば母親は、その子の心を全く把握したり理解したりしておらず、それを自分が教えてあげた、という展開になっている。父親は若干ハードルが低く、父親を直接批判する箇所はあまり見られない。が、母親は同じ同姓であるせいなのかどうか知らないが、徹底的に批判される。まるで教育をだめにしているのは世の母親たちであるかのようにさえ見えてくる。だからこそ、このような思い切ったタイトルを本につけたのだろうと思う。単に人目を惹くための冒険ではない。このタイトルは、多分に本音そのものである。
 それからたとえば、教える者が、選手に対するコーチのような存在である、とするのはいい。それは私も常々口にしている。しかし、よいコーチに出会えなかった子どもは「不幸である」とまで言い切る思いは、私にはない。
 自分がある進学校の教諭をしていたとき、ある「不穏当な発言」によりクビになった、という書き方がしてある。はっきり記してはいないが、それが不穏当だとする教育の考え方を批判しているのは明らかである。しかし、私のように教育のお偉方にとことん呆れているような者の目から見ても、この先生の発言は「不穏当」だと思う。また、まるでその一言だけで自分をクビにした、というふうに読める書き方であるが、事件を起こしたとは言えないわけだと、普通そのようなことは考えられない。おそらく、この著者が息巻いて思い切った方法をとっていく中で、常々クレームが渦巻いていたのだろう。そこへ、このちょっと度が過ぎた――というよりも、私からすれば、決してクラス全体の前で言ってはいけない――ことを言ってしまったものだから、これ以上問題を起こしていくことに疑問をもったが故の不採用、というのが自然な捉え方だと思うのである。実際、この本の他の箇所にも、「こういうことをつきつけるのは、不適切ではないか」と思うことが度々あった。偶々相手がそれを乗り越えて学習に成果を収めたという話なので問題視されないが、生徒の人格を貶めるようなそういう言葉は私は決して言わない、と感じることが私にはあった。
 さらに私の経験からすると、著者の言う「引き出し」理論(「教育」の欧米語の由来が「引き出す」ことにあることからそう言われるのだろうと思う)の具体的な方法として、すべて「待つこと」によることこそ教育だ、と言われているが、それが公式であるとは思えないことがある。ある子の場合は、とにかく暗記でも、訳が分からなくてもいいから、一度点を取った事実を作ることによって、自信が回復した。著者に言わせれば邪道である。待ってなどいないし、ずばり詰め込みである。しかし、その状況のその子には、一度でも点が取れたという事実が、その子を立ち上がらせた。よし、次はもっと取れるようにしよう、と前向きになった。もちろん、これは特別な例である。だが、少なくとも著者が百%「正しい」とする方法とは反対の方法によって、一人の子がやる気を出したのである。
 どうもこの著者、自分が「正しい」と思ったことは、すべて相手にとっても「正しい」と思いこんでいるフシがある。自分の価値観は相手も同じようにもつべきである、という強い信念が本のすべてに漂っている。長年感謝される生徒を抱えたための自信であるのかもしれない。それに対して外部からとやかく言う立場にはない。出会った人に良い影響を与えたのなら、それはそれでいい。だがこの本では、あまりにパーフェクトなのである。自分の理論は普遍的に「正しい」のであり、それに従うようにしなさい、という口調ばかりなのである。「お母さんは勉強を教えないで」と言う著者に対して、外野からこっそり言いたいのは、「あなたが教育とは何かを決定しないで」である。著者の理論どおりすれば、いじめも学級崩壊もなくなる、ということが幾度か記されていた。そんなことが、果たしてあるだろうか? しかし、あまりにも完全に「正しい」著者の語り口調に、ふと洗脳的な宗教団体を思い出すのであった。断固として「正しい」ことを繰り返していけば、そこにのめりこんでいく者も現れる。案外、この個人塾の名が売れ信奉者がいるというのも、そのあたりに大きな理由があるのかもしれない。それを経営上の武器として計算し尽くして、これだけの「正しい」というイメージを植え付けようと努めているのであれば、それはビジネスとして、天晴れであろう。だが、真底「正しい」と思いこんでやっているのだとしたら、ある意味で恐ろしいことのように感じる。
 こうした、自分が「正しい」という口調を許される人は、私の知っている限り、この世に一人しかいなかった。福音書の中のイエスである。イエスは、それがために、人々に責められ、十字架に架けられたのである。




Takapan
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